劣等感

□君へ宛てる最後の書簡
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 僕はこれ以上、君の事を書いたりはしないつもりです。これを最後とするのは、僕の中に未だ住まう君と決別せんが為。しかし無論、僕はこれを書き記したくはありません。これを書き終えれば、君とは完全にお別れになってしまうのですから。されども、足下に引かれた一本の線の内側から、一歩だけ足を出したり戻したりするのは、傍から見れば滑稽で、自分自身でさえも憤懣するばかり。因りて僕は、悲しみや苦しみあれども、これを書き終えなければなりません。
 あの夏の日、或るラーメン屋へ行きましたね。混んでいましたから、カウンターの席に二人並んで座ります。先ず最初に、君は巨峰杯、僕は生ビールを頼み、そうした後で、それぞれの食べたいラーメンを注文しました。乾杯をして、互いに一口だけお酒を飲みます。とても幸せなる時間です。しかし君は急に眉間に皺を寄せ、口を押さえてお便所に駆け付けました。何事かと思い、ふと君の注文したお酒のグラスを見ると、その上に小さいごきぶりの死骸が浮かんでいます。僕は急に落胆して、カウンター越しに店主に言いました。
「ちょっとこちらへ来て貰えますか。」
 何故に僕がそう言ったのか。それは、大声でごきぶりが入っていますと言う事に因りて、他の客をも興醒めさせてしまうからでした。カウンター越しでは料理の音や多くの客の声で大声を出さねばなりませんでしたから、そういう理由で店主を呼んだ訳です。が、店主は顰めっ面で、「何ですか。」と言うばかり。仕方無く僕は、そのごきぶりの入ったグラスを店主に見せました。しかし意味が判らなかったらしく、他の店員を顎で使い、その者がやって来ました。事情を説明するとその人は、「すみません。今直ぐに取り替えます。」とさらりと言って、新しく巨峰杯を持って来ます。
 君が戻って来ました。もう、そのラーメン屋で食事をする気が無い様です。漸く状況を理解した店主は、料理をしながらカウンター越しに、君に「どうもすみませんでした。」と言うだけでしたし、取り急ぎ其処を出る事にしました。すると店主は今更のこのことお勝手から出、
「どうもすみません。いや、お代は要りません。」
 僕は激怒しました。何故なら、君や僕がその店主に対して求めた事は、返金ではなく、誠意ある謝罪だったからです。それなのに、適当なる謝罪の後に、お金でどうこうしようとしている様なそれに、全身が震える様な怒りを覚えたのです。しかも僕達は、お金を返せ等とは言っていなかったのですから、尚更可笑しな態度です。他の客はそうした返金で丸く治めるのが多い様ですが、人の性質は千差万別であるからして、誰にでも返金すれば問題無しとするのは不可思議です。しかもその店主は、一生懸命に働いていた、しかし中々覚えの悪い店員に思い切り平手打ちしていた事が過去にありました。こうした人間が、どうして人を殴られましょう。
「お金は要らない? 何を仰るのです。一口と雖も、飲んだものの代金は払います。」
 憤然と言うと店主は、
「じゃあ、飲み物代だけは頂きますね。」
「飲み物代だけ? ラーメンも頼んだでしょう。それもきちんと勘定して下さい。」
「いや、しかし、ラーメンはまだ作っていませんから…。」
 作ってもいないラーメンの値段をも払う事は、流石に理不尽である様な気がして払いませんでした。が、僕は続けてこう言いました。
「しかし、一体、何なのです。せめて心の込められた謝罪はするものでしょう。それをカウンター越しに、さらりと言って…。僕は失望しました。貴方や他の店員さん達にはよくして頂いていますから、余り酷い事を言いたくはありませんが、しかし、余り有ります。まるで怠慢です。また、此処へは来ますが、今日は帰ります。」
 僕達は憤然とその店を出て、口直しに或る居酒屋へ向かいました。その道すがら、君が言います。
「きちんと言ってくれて、有り難う。」
 しかし僕は、
「ううん、自分自身の為なんだ。ああして憤怒したのも、面白くなかった為に八つ当たりしただけだ。」
「面白くないって、一体、何が。」
「僕はね、憎いんだ。それは店主に対してでもごきぶりに対してでもなく、君の飲むお酒にごきぶりが入ってしまったその偶然が憎いんだ。何故、僕の方に入らなかったんだ。さすれば、例えばごきぶりを噛んでしまったとて、僕はそれを笑い飛ばす事が出来たのに、君の方に入っていたんだ。何故だ。僕の方に入っていれば何も問題は無かった。誰も傷付かなかったんだ。それなのに、何故だ、何故だ。」
 こうした不条理なる僕の怒りに、君は始終、礼を言っていました。


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