劣等感

□晴天
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「誰も居なくなっちゃったね。」
 静寂ばかりが溢れる、その部屋の姿見に映る彼は言う。僕はその真正面の部屋の一隅に膝を抱え、彼を見ずして素っ気無く頷いた。
「どうするのさ。本当に、誰も居ないんだよ。」
 僕は其処から窓の外を見た。曇天以外には何も無い。それは、静寂しか無いこの部屋と、まるで同じだった。
「ねえねえ、どうするのさ。」
 僕はその声に、やはり目を向けない。それもその筈、彼は僕のこうした現状を、実は嘲笑っているのだから。
 彼は何時もそうだ。僕が小学生の頃、いじめられて帰って来た時や、お父さんに叩かれた時、お母さんに意地悪く叱られた時等に、何時も心配そうにして、でもその実、内面には冷笑を秘めていた。僕にはそれが判る。だって、長年の付き合いなのだもの。
「ねえってばあ。どうするのさ。」
 僕は目を瞑る。
 そう、僕は、全てを失った。小説を書いてから、僕は全てに恵まれる。「貴方は素晴らしい感性の持ち主ですね。」と言われ、友達が沢山出来て、先輩には可愛がられ、後輩には慕われて、多くの女の人が僕に群がった。僕はそういう人達に敬意を表し感謝をする。けれども、どうした訳か、ちょっと意地悪をしてみたくなり、友人を馬鹿にしたり、先輩をこきおろしたり、後輩を指弾したり、女の人を軽蔑したりした。
 あっと言う間だった。胴上げされていた僕は一瞬にして、氷よりも冷たい地面に落とされた。嘗て、「君を一生に於いて慕うよ。」と言ってくれた彼等は、最早汚いものを見る様な目で僕を見下ろして、次々と去って行く。
 僕には何も無くなった。贈り物の中身を取り出されたその箱の様に、空っぽだ。
「ねえねえ、どうするのさ。」
 僕は何十年か振りに、彼の問いに静かに答えた。
「どうしようね。」
 彼は驚いた様子だった。しかしそれでも悠然と、
「久々に口を利いてくれたね。で、どうしようか。」
 僕は考え込んだ。考え過ぎて、上手く考えられない。そっと言う。
「君なら、どうする?」
 僕は此処で久し振りに彼を見る。彼は左の眉を上げた。
「君と話す。」
 僕は右の眉を上げて、
「僕と?」
 彼は何度か頷いた。
「誰が居なくなっても、君だけは此処に居るからね。」
 僕は泣きそうになった。
「でも、君は…。」
「君は、僕が君を嘲笑していると思っているらしいね。」
「だって、そうでしょう。」
「ううん。そんな事は無い。何故なら、君は僕だもの。」
 僕は噴き出した。
「君も、僕だ。」
「そう!」
「可笑しいね。」
 二人は笑い合った。そうした後で彼は、
「ねえ、もう、その猜疑心を、消してくれないかな。僕は、他の人間達とは違って、嘘は言わないよ。」
 長い静寂が過ぎ去った。その後で僕。
「僕が、極悪人でもかい?」
「極悪人の、何がいけないのさ。君は愛する者が極悪人だったら、別れるの?」
 僕はかぶりを振る。
「ううん…。」
「人には色んな生き方がある。嫌いな所も含めて好きっていうのが、本物じゃないかな。」
「君…。」
 僕は両目から涙を落としてしまった。
「ごめんね。ごめんね。僕は君を、心の上では裏切っていた。君が僕を嫌悪しているのだと思って、だから負けじと軽蔑したんだ。でも、勘違いだったなんて…。ごめんね。僕は、何て、醜いんだ。」
 彼は純粋な微笑をして、
「良いんだ。もう、良いんだよ。してしまった事をぐちぐちと言っても仕方無い。それを活かした生き方を、これからしようよ。さっ、涙を拭いて。いいや、拭かなくて良い。泣きたいだけ泣いて、そうして泣き止んだら、僕の頼みを聞いて欲しい。」
 僕はしかし涙を拭いて、
「何だい?」
「あのう…、そろそろそっちに戻っても良いかな。」
 彼は照れ臭そうにそう言った。僕は少し笑ってから、
「うん!」
 僕の空いた胸に、彼は戻って来た。それから、僕にこう尋ねる。
「これから、どうするのさ。」
 僕は立ち上がり、窓を開けた。曇天が、青空になっている。僕にはそう見えた。
「生きて行くよ。」
「死ぬまで?」
「そう、死ぬまで。」
「どんな風に?」
「今まで通り。」
 彼は無邪気な声で言う。
「へへ。そう来なくっちゃ。」



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