劣等感

□借り
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 或る男の話だ。
 彼は苦心惨憺して金を掻き集めた。親族から。妻から。愛人から。友人から。上司から。部下から。
 貰った訳ではない。借りたのである。合計の額が十二万円になった。
 彼はその金を、悔しさや悲しみの染みた手で握り締めた。そうして歩いた。夜の道を、歩き続けた。
 途中、ピアスを耳に幾つも付けた五人の若者達に出会う。若者達は彼の手に握り締められた金を、見るともなく一瞥し、にやりと笑んだ。その後で彼の前に立ちはだかる。
 一人が言う。
「小父さん。素敵だねえ。」
 それから刃物を出した。それは街灯にきらりと光る。
「痛い事はしねえ。だからその手に持っている金を俺達に渡せ。」
 彼等は蛇が獲物を捕らえる時にする様な目付きでねめつけた。
「さあ、早く。」
 彼はしかし動じない。動じないばかりか、その連中の頭であるらしき者の胸ぐらを掴んだ。こう言った。
「ぶっ殺されたいならそう言えよ。」
 五人は一瞬間、虚をつかれた様な表情をした。然る後、周りの四人が一斉に彼に襲い掛かる。
 彼は果たしてぼこぼこに殴られ、路肩に蹲った。連中の頭は言う。
「余り俺等を怒らせんで下さい。さあ、早く金を寄越せ。さもねえと、あんたは死ぬ事になる。」
 彼はぺっと唾を路肩に吐き出して、
「俺を殺すのは良いが、あいにく俺には用事がある。それが済んでからにして貰えねえか。」
 連中は大笑いした。そうして言う。
「状況を理解して下さいやあ。良いか。今直ぐにその金を渡せ。」
 彼は苦笑した。
「後ろを見てみろ。警察だぜ。俺は此処で警察と会う約束をしたんだ。」
 連中はぎょっとして振り向いた。しかし其処には暗色があるばかり。警察のみならず人一人も居ない。
 連中はまた彼を見る。が、其処に彼の姿は無かった。

 彼は走りながら思う。もし、奴等に反撃していたら、三人は優にのせた。しかし、五人は流石に不可能だ。それならば、反撃を一度もせずして、逃げる体力を残して置く方が怜悧だ。やってやったぜ。そうして、俺の用事が済んだのならその時は、
「借りを返してやる。」
 かくして、彼は或る民家の一つに入る。扉を叩かずに開けたのだ。土足のまま居間へ入った。
 居間では一人の男が、悠長に酒を飲んでいる。男は、唐突として入って来た彼に驚いた。
「何だね!」
 彼は男の胸ぐらを掴み、床に押し倒した。食卓に置かれた男のグラスが床に落ち、中からアルコールと氷とが飛び出した。
 彼は言う。
「最近、俺を避けているな。街で目が合っても、知らぬ振りですたすたと向こうへ行く。何故だ。」
 男は怯えながらも言った。
「何の事だ。」
 彼は二、三度、男の頭を床に思い切り叩き付けて、
「礼節を知っているか。質問を質問で返す事は最も悪い対応だ。」
「だから、何の事だ…。」
 彼は男のネクタイをするりと解き、それで首を締めた。
「もう一度だけ聞く。何故だ。」
「解った、解った。話す。」
 彼はネクタイを男の首から外す。
「言われただけなんだ。」
「誰に。」
「皆にさ。」
「何を。」
「あんたと関わるなと。」
「何故だ。」
「俺には権力がある。街を歩けば誰もが頭を下げるくらいの権力がな。だが、最近に此処等に越して来たあんたと仲良くする事で、あんたの堂々たる態度に誰もが腹を立てる。何故か。つまり、あんたのでかい態度が、俺の権力を使っての事だと思うからだ。虎の威を借る狐さ。」
 彼は男を殴り付けた。
「俺はあんたの威を借りたつもりはない。昔からこういう性分さ。で、周りの奴の言いなりか?」
 男は暫し左右へ目をやって、無難なる言葉を探している様子。しかし観念して、
「ああ…。」
 彼は起き上がり、宙に十二万円を舞わせた。その一万円の群れが、ゆらゆらと次第に男の腹に落ちて行く。
 彼は言う。
「借りた金だ。借りは返したぜ。」
 彼はその家を出て、夜の街へ消えて行く。



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