劣等感

□理由無き未遂
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「蟲をも殺す事が出来ない様な微笑をするのね。」
 僕と何度か身体を交じり合わせた或る女はそう言った。
 こういう意見は、実は多々あって、僕が自身を悪人とするのは、妙なる気取りと思われた事もある。が、しかし僕は、そうした微笑の後にする般若の如き面持ちで、蟻を潰す様にして人々を絶望させて来た。
 殺したりはしなかった。人を、殺したりはしなかったつもりだ。しかし或る精神疾患を患っていた女に、自殺を推し進めた事がある。その女は、翌日、自身の居宅である高層マンションの高い所から、落下して死んだ。
 不思議にも、罪悪感は無かった。寧ろ、僕は所謂悪い知らせのそれを聞いた時、にやりと唇を上げて微笑んだ。その女は僕に取って、最早邪魔なる存在であったから、清々したのである。
 僕はそうやって生きて来た。しかしそれは、自身が生きる為に仕方の無い犠牲である。自身を可愛く思う僕は、悪意の蔓延したる世間に傷付くまいとして、地道に、そうした悪業に身を染めた。あの警察官や、あの政治家がやっている事と、何等変わりはない。そういう風にならなければ、この歪んだ世間を渡っては行かれない。
 或る女性と会った。この人も、僕に取っての犠牲である。
 安酒場へ行き、色々と話した。少し酒に酔った僕は、例の、蟲をも殺さぬ様な微笑をし、
「それでね、いや、実は、例の恋人と付き合っていた時に浮気をしたのは、二回だけなのだよ。」
 そう言った後でこう付け加えた。
「二回だけ。だけ、と言うべきか、二回も、と言うべきか迷うけれども、散々に女の人を抱いている様に見せて、実は二回。こういう意味では、だけ、とするのが適当ではないかね。」
 女の人は目をぱちくりし、頷いた。
 しかし僕が言ったそれは嘘である。二回だけ、ではなく、数え切られぬ程に女人を抱いた。上手く現実的なる数字を口から出した訳だ。
 では何故に嘘を言ったのか。それは、その女の人を口説く為である。かと言って、僕は自分自身を美化するのは嫌いであるからして、そう言った後で酷く後悔した。
 彼女は純粋なる笑みを湛え、ただ頷く。僕は風に流される雲の様に、ふと思い付く話をする。
 それは、主食の前の前菜であった。つまり、僕はその女の人を抱くつもりで居たのであるから、遠回しに時間を掛けて、後にやって来る快感を貪ろうと思う。そうして、女の人を必ず僕の前で一途なる犬にする気であった。
 その前菜は僕に取ってどうでも良かった。性交で言う所の前戯等どうでも良い。射精が重要なのである。そうしてその後に訪れる、白々しさが必要だ。
 夜が明けた。空がこの様に変わるのと同じく、僕も般若の顔が徐々に現われつつあった。
「あの池を見に行こう。暑いけれども、我慢しておくれ。」
 近くに存在するその池へ向かう。その道すがら、
「しかし、何はともあれ、僕は悪人だ。沢山の悪い事をして来たからね。二回の浮気の他に、人を傷付けたり、まあ、色々したさ。」
 しかし女の人は、
「悪人は自身を悪人とは言わないと思います。悪業を行い、罪の意識を感じない人は山の様に居ます。だから、貴方は悪人ではありません。」
 池に着く。僕は苦笑して、
「この池には、例の元恋人と来た事がある。それなのに、他の女の人と来ている。ふん。全く僕は無神経なる男だ。」
 蓮の葉が池一面を覆っている。そうして僕は言う。
「あの人は、いやはや、可笑しい人だった。この蓮の葉をちぎって、頭に被せたりしたのだ。通り掛かった小母さんに、怒られていたっけ。」
 僕はそうした想い出に胸が苦しくなった。しかしその、言わば神聖なる場所を土足で入り込む事で、僕は何とか生きて行かれるのだ。
 して、漸く時が訪れる。その女の人を手中に落とすべき時が。


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