劣等感

□ホスト
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 汚い街だ。路肩に誰かの吐いたげろが点在し、煙草の吸い殻や何も入っていない買い物袋、空き缶、新聞紙、その他様々のものが風に吹かれている。
 俺はこの街に息をしている。この街で、命を懸けて生きている。俺の職業は、そう、ホスト。
 俺は新人の頃、吐いても酒を飲まされた。客に酒をぶっ掛けられた事もある。罵詈雑言を浴びせられた事も、殴られた事もあった。しかし、俺は耐えに耐えて、未だ幹部にはなれずには居るが、遂に目標を達成する事が出来た。
 今日で晴れて退職だ。唐突なる辞表に、上の連中は嫌悪するだろう。しかし、そんな事は知らない。俺の目標は達成した。此処は自我の精神で、何が何でも今夜で退職する。
 この吐き溜めの街の隅々を見渡す。あのコンビニエンスストアの前で、或る女の腰に腕を回して口説いたっけ。またあの定食屋の前で嘔吐して、その時には届かなかった夢に泣き崩れ、あのマンホールの上では、雨の日に呼び込みが為に右往左往して転び、考え事をしていたらあのキャバクラの看板にぶつかって通りすがりの人間に笑われ、そんな事が、沢山あったっけ。さようなら。俺はもうこの街には来ない。
 店のあるビルディングのエレベーター前。俺は深く息を吸って、ゆっくりと吐いた。開閉ボタンを押す。扉が開いた。
 俺は何か嫌な感覚に襲われる。例えば、その左右に開いたエレベーターの扉が巨大な怪物の口の様に見える。俺はしかしその不安を振り切って、中へ入って扉を閉めた。最上階のボタンを押す。
 エレベーターは轟音を立てて俺を運んだ。途中、液体がこの中を満たすのではないかと思う。つまりそれは怪物の胃液の様なもので、俺を次第に溶かす。…いや、どうかしている。これから上の連中に辞表を出す事で、いやに緊張しているだけだ。落ち着け。息を深く吸え。そうしてゆっくりと吐け。
 チンッという間の抜けた音がする。最上階だ。俺は降りて目の前にある扉を開ける。中には何十人かのホスト達が安楽椅子に座っていた。一斉に俺を見る。
「お早う御座います。」
 彼等は挨拶を返さなかった。それはとても珍しい事。やはり何か嫌な感覚に襲われたが、取り急ぎ俺は端にある安楽椅子に腰を掛ける。
 店長が売上金の話や駄目出しをする。長いその時間が終わってから、それぞれ思う事のある者が喋り出す。して、それも終わり、俺は立ち上がって言う。
「突然ですが、今日で自分は退職します。」
 店長は憤然と、
「お前は馬鹿か。どの店や会社でも、大体は一ヵ月前から退職の旨を伝えるだろう。急に辞めるだなんて、常識的に許されない行為だ。」
「その通りです。しかし、突然に辞めなければならない事情があれば、所謂常識外れの行為も仕方無しと自分は考えます。大変申し訳ありませんが、辞めさせて下さい。無論、突然の事ですから、今月分の給料は要りません。」
 そう言って、背広の内ポケットから辞表を取り出した。それから、俺の目の前にある食卓の上にそれを乗せる。
「それでは、失礼します。」
 深々と頭を下げ、くるりと反転、扉へと歩く。俺は息を深く吸って、ゆっくりと吐いてから、扉を開けた。エレベーターに乗り込み、一階を押す。やはり轟音が鳴り響き、俺を運ぶ。だが奇妙なのは、カンカンという、律動的で慌ただしい音が聞こえる事だ。先程までは聞かなかった音。何の音だろう。
 俺はふと寒気がした。恐る恐る振り返る。何も無い。エレベーターの内側の壁だけだ。無論、怪物の口も無いし、胃液も無い。しかし何か異様だ。
 チンッ。間の抜けた音。扉、開く。そうしてその向こうを見て、俺は理解した。
「帰さねえぜ。」
 奴等は言った。幹部の連中と、その下に付く者達、計十一人。エレベーター内で耳にしたカンカンという音は、彼等が階段を駆けて先回りした音だろう。終に俺の仕事のやり方がばれた様だ。糞っ。最終日に限って、こうなるのか。店内での目標は達したが、しかし人生の目標はまだ達成していない。
 逃げるより他は無い。だがどうやって? 下っ端の奴が外から「開」のボタンを押し続けている。こちらから閉じる事は出来ない。尤も、閉じた所で逃げられるとは思われないが。どうする? 相手は十一人。しかも、奥の奴等は何処に隠し持っていたのかは知らないが、金属バットを持っている。勝てる訳が無い。こちらに何かしらの武器があれば勝てる。だが何も無い。精々、ボールペンくらいだ。これで奴等の目を潰せば勝つ見込みはある。しかし目を潰すと言っても、何人まで出来る? 一人? 二人? 一人をやっている間に俺は間違い無くやられるだろう。謝るか? 土下座をするか? 無理だ。許してくれる訳が無い。
「裏の公園に付き合えや。」
 幹部はそう言った。
 糞ったれ! 潔く殴られるしか道は無い。


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