劣等感

□傘
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 最近は居宅の付近に、何故か若者が多く越して来た。彼等は夜遊びをするらしく、深夜、僕が眠りに就いた辺りで、大声で通り過ぎて行く。言うまでもなく、僕はよく目を覚まし、充分に睡眠を取っているとは言われない。
 その様な或る夜の事、眠られずにベランダで煙草を吸っていると、目の前にある通行用の小さい道に蹲り、少女が泣きながら、携帯電話で話している。
 夜と雖も、蝉が鳴き、木々が少しの風に揺らめき、星や月が輝き、そうしてじとじとと熱がある。外は騒がしい。
 少女は泣きながら言う。
「何故、そんな酷い事を言うの。」
 僕は煙草を吸い終えたが、もう一本の煙草にまた火を着けた。
「貴方は変わってしまった。悪い方へ進んで行くのは何故なの。」
 その会話が聞こえて来て、僕はどきっとする。その少女が、僕の知り合いではないかと思ったからだ。いや、もっと正確に言うなれば、彼女が僕の知人で、其処でその様な電話をしている振りをして、その実、僕に遠回しに問うている人間なのではないかと思われたからだ。しかし、声に聞き覚えが無いし、目を凝らして見るに、その華奢な身体、横顔に見覚えも無い。偶然にも、少女の話している相手が、僕に似た人間なのだろう。
「戻って来て。お願い…。」
 少女は懇願する。
「貴方は、太陽が月を照らして輝かす様に、私を照らしてくれたじゃない。輝きの無い月なんて、月じゃない。」
 感服。良い比喩だ。しかし、月が太陽の光を失って、月らしくないとしても、しかし、月である事には変わりが無い。
 僕はお酒を飲みたくなって、外へ出た。雨が降っている訳でもないのに、傘を持って。
 少女を通り過ぎる時、彼女は電話を切って、泣き崩れた。蹲ったまま、おいおいと泣いている。人目を憚る事が出来ない程に、辛いらしい。
 僕は少女を通り過ぎて、何歩か歩いてから、ちっと舌打ちをして、彼女の所へ戻った。少女はおっかなびっくり顔を上げる。
 僕は彼女が何かを言う前に傘を差し出した。
「あげるよ。」
 少女は首を傾げた。
「え。」
 僕はもう一度言う。
「あげる。」
 少女が言った。
「雨は、降っていません…。」
 僕は空を見上げた後で、
「君の真上には雨が降っている様に見える。」
 そう言って無理矢理に傘を手渡して、僕はすたすたと歩いた。
 後ろから傘を開く音が聞こえた。そうして少女が、
「あの、…穴が空いていますよ。」
 僕は立ち止まり、振り返った。苦笑して、
「僕には君に降る雨を全て拭ってあげる事は出来ない。それと同じ様に、その傘も、そうなんだ。」
 僕は前に向き直り、後ろに居る少女に手を降った。
 中途半端なる者は、今日も、中途半端なる生き方をした。



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