劣等感

□娼婦
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 人々は私の生業に就いて、或いは賞賛し、或いは軽蔑し、そうして、このどちらに転んでも、敬遠する。
 夜の都会のその横町で、私は立っている。金を掛けた全容だ。髪の毛も、化粧も、洋服も、首飾りや指輪も、爪も、靴も。最終的な目標に辿り着く為には、或る程度の投資も惜しまない。長かった。後一人さえ客を引く事が出来れば、私はこの世界から足を洗える。
 汚らしい横町を見回した。誰かが嘔吐したらしく、電柱の傍に嘔吐物。その匂いに、私は顔を顰めた。相変わらずの街。私が初めてこの場所に立った時も、嘔吐物は私を見詰めていた。その時に見たそれは、「ようこそ。」と言った様に私は感じた。
 思い出す。本当に、苦しい日々だった。一人の奇妙な目付きをした男と五万円で手を打って、その家へ行くと、十数人もの男が犇めいていた。私は、その者達に所謂輪姦をされる。涙も出なかった。ただただ長い時間が過ぎて、金も貰う事が出来ぬまま、私はごみの様に捨てられた。
 他にも、殴打しながら性交をしないと気が済まない者、私を紐に吊さないと感じない者等、少し変わった趣向を持つ者も客の中に居た。
 金を貰っても、しかし、それを貯める事は当初、出来なかった。何故なら先に挙げた、お洒落の為である。売れる為には、先ず美容を保たねばならないし、服装も出来るだけ夜に目立つ、しかも性的魅力を感じさせる装いをしなければならない。且つまた、夏場や冬場には、暑さや寒さに長時間も耐えられる程の代物が好ましい。日が暮れ始めた頃から昇るまで、ずっとお茶をひく事もある。その為、やはり実用性も多分に考えねばならない。だから最初の三、四ヶ月は、全く金の貯められぬ日々であった。
 とても長かった。しかしもう終わりだ。今日、客を一人だけ引けば、私はこの街にもう戻らない。
 しかし私は、この日、或る男と出会う。
 その男の服装から判断するに、彼はホストだ。黒色の細身の背広を着た男。端整な顔立ちだが、顔面は傷だらけで、血も出ている。よろよろと歩き、何か訳ありといった様子である。
 私は面倒な事に関わりたくはなかったが、しかし、夜の仕事をしているが為に度胸が付いたのか、実に自然に彼に近寄った。
 声を掛ける。
「大丈夫ですか。」
 男は私を見た。その目は星よりも綺麗で、何か意志を感ず。男は口を開いた。
「君は、娼婦だね? 幾らだい?」
 私は時価だ。しかも相手やその行為に因りて値段はまちまちである。が、後一万円で事足りる。だからこのぼろぼろの男が私を買うならば、その額で手を打たす。無論、二人の客を引くとして、五千円ずつ支払わせる方法もある。しかし、今日は時間が無い。出来る限り一人に一万円を払わせてこの世界から足を洗いたい。
 それなのに、私はこう答えていた。
「千円。」
 男の傷だらけのその様に同情したのか、そんな返答をしている。男は片方の眉を上げ、少し意外といった表情をした後で、
「随分と安いんだね。だが、今は金があっても使えない状況なんだ。はい、千円。」
 私は受け取った。
「こんなお願いをするのは娼婦に対して失礼かも知れないが、タクシーを呼んでくれないか。その千円は手間賃さ。いや、正確に言うのなら、君がタクシーを呼ぶまで俺が君を買っている訳だから、その値段。」
 男は変だ。普通ならば千円で性欲処理を行う事が出来るのだから、喜ぶ筈だ。しかし彼はしない。が、それは当然なのだろう。これ程までに怪我をして、女を抱く気等起きやしない。それに、男の雰囲気からするに、早くこの街を出たい様にも感ず。
 通り掛かったタクシーを停める。扉が開く。男はよろよろと歩き、車内へ入った。扉が静かに閉まる。
 私は何が無し尋ねたくなった。
「何処へ行くのですか。」
 甚だ奇妙な質問だった。彼が何処へ行こうが、私には何の関係も無い。しかし聞かねばならない様な気がしているのだ。
 男は窓を開け、平然と答える。
「日溜まりの中へ。」
 その時の男の顔程、美しいものは無かった。私が着飾る為に買った様々の宝石が、まるで偽物なのではないかと思われる程の輝きだ。また、悲しい夜が明けた後に訪れる朝日や、辛い昼間のその後に瞬く星さえも、その男の微笑には敵わない。私が初めて見た、人間らしい美しさだ。
 走り出したタクシーは遠くの方へ消えた。
 日溜まりの中。それは誰にも存在するものだ。私も、嘗てはその中に居た。しかし、悪意の蔓延する世間に、私は手足を引き摺られ、こうして、汚物で書き殴った様な夜の町に、息をする事になった。


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