劣等感

□廃人
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 遅くまでやっている精神科病院へ行きました。
 これは持病の強迫性障害を治すべくして通院している所であり、この日、自分は焼酎の瓶を持ち、これを飲みながら、其処へ行ったのです。
 自分の担当の医師は、自分が既に泥酔している事を知り、真顔でこう言いました。
「どうしたのです?」
 自分は暫し間を置いて、ぷっ、と噴き出した後、大笑いしました。
「落ち着いて下さい。」
 僕は急に怒り出し、
「この偽善者がっ!」
 病室は一瞬にして憂鬱なる空気になりました。
「先生、貴方は、偽善者だ。僕を救うと言って、全く救わなかった。カウンセリングを受けども薬を飲もうども、一向に症状は治らない。」
 医師は、
「最善は尽くしているつもりです。薬は、必要であるからして処方して居り、カウンセリングを通して、貴方に合った治療を行っています。然れども、成る程、貴方をこうして直ぐに回復させられないのは、私が偽善者だからなのでしょう。」
 自分は突如として悲しくなって、大粒の涙を流しました。
「先生。しかし、やはり貴方は偽善者ではありません。悪人の、泥酔が故の戯言です。許して下さい。」
 自分はそれからかなり長い間、おいおいと泣きました。医師は、「どうなさったのです?」と尋ねます。
「僕には恋人が居ました。とても、大切に、していました。しかし、彼女は精神的なる病気を患い、手首を切り、腕を切り、僕達二人が交わした約束を裏切り、僕を傷付けました。僕はその苦しさから、堕落する事を決意し、沢山の酒を飲み、沢山の女の人を抱き、黒色の人になりました。彼女がやがて病気を克服し、薬も、手首を切るのもやめた時、もう僕は、深い穴から這い上がれない程に堕ちていました。僕は更に更に酒を呷り、その現実から逃げ出そうとします。彼女は心配そうに僕を見詰めますが、僕は目を逸らし、やはりお酒を呷ります。滅茶苦茶になりました。全て、滅茶苦茶になりました。自分は、遂に、アルコール中毒者になり、夜の街を、ほぼ狂人の様になって走り回りました。成れの果て、彼女は去り、僕は今、独り法師です。人間は、一生涯に於いて愛し続ける事は出来ません。対象の者が、堕落すれば、それを、突き放すのです。今まで僕が付き合った女性は、皆、そうでした。彼女も、そうでした。しかし、彼女は、仕方ありません。別れて、正解だったのでしょう。それまで以上に、もう、僕が彼女を傷付ける事は無いのですから。」
 医師は頷き、
「何とかします。力不足ですが、貴方を、必ず救います。」
「いいえ、先生。」
 自分は酒を呷り、
「お別れをしに来ました。もう、僕は此処には参りません。」
 立ち上がり、診察室を出ました。
 幼い夜の道を、ふらふらと歩きます。家まではとても遠く、それでも、歩きました。
 途中、ちかちかと点滅を繰り返す電灯に出会います。その、消え入りそうな光を見て、自分はとても悲しくなりました。その悲しげな光は、自分です。自分自身です。僕はわっと泣き出して、空を仰ぎます。夜空は曇り、月を隠し、僕を傷付けます。この自分には、どうやら月の光さえ差し込まぬ様でした。
 自分はやがて帰宅して、それからお便所にて狂った様に嘔吐します。何度も何度も吐きました。そうして、また、わっと泣き、便器を抱え、そのまま眠ります。
 夢を見ました。悪夢です。斧を片手に持つ仮面を被った大男が、走って自分を殺さんとするのです。自分は逃げました。しかし、自分には最早生きる気力がありません。逃げる意味がありません。しかし其処で目は覚めて、自分は苦笑しながらよたよたと部屋へ入ります。
 手が有り得ない程に震えました。呼吸も上手くする事が出来ません。鏡を見ました。青冷めた見知らぬ顔が其処にあります。壁に貼られたポスターの被写体が喋り出しました。「飲めよ。酒をもっと飲め。」窓の向こうに血の雨が降り、天井が次第にこちらへ押し寄せ、誰かから貰った人形が大笑いしています。余り可笑しくて、自分もつい大笑いしました。
 自分は、いよいよ廃人になりつつある様です。



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