劣等感

□無色透明
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 それに手を出したのは、物凄まじい、絶望感からだった。
 僕は、所謂フリーターだ。それでもある夢を追って生きている。僕の夢とは、それは画家になる事。幼少の頃から、がむしゃらに絵を描いて来て、小学校や中学校の義務教育での展示会では、沢山の賞を取った事もあった。
 僕の絵は、クラスメートも教師も、また、親でさえも評価してくれて、いよいよ天狗になっていたのだけれども、それでも、更に自分の感性に磨きを掛けて、そして、絵を描くに当たっての新しいデッサンの仕方等に就いても、日々、頭を悩ませていた。
 働いては絵を描いて働いては絵を描いて、その繰り返しの日々をただ過ごして、そして僕はある日、絶望した。
 「貴方は、色弱なのよ。」
 僕は母が言うその言葉の意味が解らなかったし、「色弱」と言う言葉も初めて聞いたから全く理解出来なかった。
 「だから、絵描きになるのは諦めた方が良いわ。お母さん、もっと早く言えば良かったわね。ごめんなさい。貴方の夢を壊したくなかったの。けれど、もうすぐで二十歳になるでしょう。そろそろ将来に就いて、真面目に考えなさい。お母さん、貴方の為に出来る限りの事は、何でもするから。」
 僕はすぐに色弱に就いて調べ、その内容を知って愕然とした。僕は、色彩の判別能力の弱い人間の様で、黄緑を黄色だと思っていたのかも知れなかったのだ。嗚呼、自分の描いて来た絵の全ては、全て偽物だったのだと気が付いて、僕はその場で筆をへし折った。心無しか、筆が泣いていた様な気もしたけれど、その折れた夢で、カンバスをぐちゃぐちゃに、黒(もしかしたら違うかも知れないけれど、その様な色)で塗り潰した。今までに僕に与えられた全ての賞さえ、それは苦し紛れのお世辞にしか聞こえなくなった。
 死のうと思った。産まれて初めて、死のうと思った。
 僕は取り敢えず、三年程付き合っている恋人の香織に電話を掛け、そして事情の一切を話した。
 「馬鹿ね。別に、太陽が白くても黒くても、それが貴方から見た色彩ならそれで良いじゃない。芸術には、マニュアルが無いのよ。自分の好きな様に描いて、それで自分が満足する。それはただの自己満足かも知れないけれど、それで良いのよ。その内に評価をされるなら、それはそれで良い事でしょう?」
 僕は泣いた。でも、その涙は感動の為の涙ではなかった。悔しさの余り流した、とても小さな涙だった。
 彼女は尤もらしい事を言うけれど、今までに赤だと感じていた色が、実は黒だった、と、これは極端だけれども、そう知った時の僕の絶望感に気付いて欲しかったし、僕は太陽の色を太陽の色で描きたい。それだけだった。この考えは度台、芸術ではないのかも知れないけれど、僕は誰もが使う色彩の中で色々なタッチを使って、確実な差を付けたかった。でも、僕は太陽を黒で描いていたとしたら、その様な物は誰の共感も得られないと危ぶんで落胆した。別に、他人からの評価の為に絵を描く訳ではないけれど…。
 電話を切って、僕は夜の街に出た。
 其処は夜なのに賑やかで、僕の寂しさが埋まるかも知れない、と少し期待してみたけれど、それは無駄だった。僕はその騒々しい街の中で孤独だった。
 寒い。そう言えば、クリスマスはもうすぐだ。
 ひんやりとした空気に包まれて歩くと、早くもイルミネーションが光り、僕は大粒の涙を流した。
 あの光の色は、本当は何色だろう。
 やはり死ぬしか無いと思った。香織には悪いけれど、死んで楽になろうと決意した。
 と、その時、僕は怪しい男に声を掛けられた。黒のハットを冠り、夜間なのに黒いサングラスを掛けて、白いマスクを付け、黒のロングコート。そのコートの中はスーツの様に見受けられた。
 「悩ミガアリソウナ顔ヲシテイルネ。良イ物ヲアゲルヨ。」
 彼は片言の日本語でそう言って、僕にある物を手渡した。そしてすぐに、足早に人込みの中に溶け込んで行った。僕は、呆然としていた。渡されたのは、茶封筒だった。
 中を覗いてみると、何やら白い粉がビニールに包まれていた。僕はそれをごみだと思い、その黒づくめの男に怒りを覚え、何て言う散々な一日だ、と心の中で叫んだ。
 僕は帰宅して、心持ち両親に顔を合わせたくなかったから、居間には寄らず、玄関に入るとすぐ左手側にある階段を上って、二階の自室へ入った。男から手渡された封筒を机の上に置いて、ベッドの上に寝転ぶ。
 その時だった。その粉の正体に僕は漸く気付き、遮二無二封筒を破り、中に入っていた白い粉の入ったビニールを取り出した。
 現実的にこんな事があるだろうか。これは、まさか…。


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