劣等感

□害虫
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 人込みは私にとっての地獄です。地獄と言う物を実際に見た訳では御座いませんが、私の想像している地獄が、奇妙にも人込みと一致しているのです。
 何故なら、私は生まれ付きの不細工です。鏡に映る自分を見る度に、湧き出る劣等感と屈辱感、これは、途轍も無く凄まじい感情で御座います。この様な私が、人込みに出たらどうでしょう。嘲笑、嘲笑、嘲笑。只、嘲笑の的なのです。正に、地獄としか言い様がありません。然し、嘲笑される事をも上回る、劣等感や屈辱感さえも無い世界がある事を、私は先日まで知り得る事が出来ませんでした。
 ところで、不細工で醜い私には許されていない事でしょうが、私は美に憧れて居ります。然し、憧れと共に憎悪と言う感情も、確かに存在している事を認識しています。
 憧れを抱いている心情は、わざわざ此処に書き記さなくても理解して頂けると思われますが、只、単純に、自分に与えられていない未知なる美を手にするとどうだろう、周りの世界は百八十度がらりと反転して、詰まらなかった世界がとても楽しく見えて来るのではあるまいかと考えて仕舞うと言う物です。勿論、その逆も仮定としては充分に考えられますが、然し、私は美貌を手に入れる事が出来ましたら、「絶対に」、この惨めな生活を終え、楽園で暮らす様に輝かしい生活を送る事が出来るのだと確信して居ります。何故なら……。何故なら。それを説明する為に、害虫の芥虫を、例として挙げて差し上げましょう。
 芥虫。この漢字を、akutamushiとお読みになって下さい。これは、ごきぶりの古い名前です。嘗てのごきぶりは芥虫と呼ばれ、色々な経緯を経てごきぶりになりました。その経緯に就いての詳細も、縷々綿々と此処に書き記したい心境で居りますが、それに当たっては殊にこの手記とは何の関係も御座いませんので、遺憾な心持ちを感じながらも、申し訳有りません、省かせて頂きます。
 さて、芥虫。この生物はゴキブリ目に属する昆虫の総称で、体は全身が黒色で扁平の形をしています。奇妙にも光沢が有り、触覚が糸状で長い。その触覚の動作は不規則で(いいえ、或いはまじまじと観察すれば、何か特有の規則が存在しているのかも知れませんが、彼等は夜行性ですし、途轍も無い素早さで走ります。その為、自分はこれまでを生きて来た中で観察等出来ませんでした)、革質の前羽と膜状の後ろ羽を持ち、飛ぶ事も御座います。又、彼等は人家に住む種と野外に住む種とが居り、前者はご存知の通り、台所で多く発見されると思われますが、食品を汚染し、後者は多種多様の病原菌等を媒介するのです。
 私は、はっきりと申し上げまして、芥虫に嫌悪を抱いて居りました。何故、嫌いか。それは一つには、食品を汚染したり病原菌を媒介したり、そう言った性質も然り、あの外見です。触覚の動きが不気味ですし、あの素早さと羽を広げて飛ぶ姿。悍ましい事この上有りません。その為、私は幾度と無く、彼等を殺めて参りました。
 私が幼少の頃には、古い一軒家に家族と住まって居りまして、夏の夜になるとそこかしこに芥虫が湧いて出ました。私の父は彼等を靴や古い紙で潰す事を常としていました。手ぶらの状態で、しかも周りに手頃な武器が無い時には、素手で潰す事も少なくありませんでした。
 或るとても暑い夜の事、父と私とが縁側で談笑して居りますと、一匹の大きな芥虫が現れました。恐らく成虫でしょう。縁側から続く長い廊下の向こうから、不気味な律動で歩み寄って来たのです。父と私とが一緒に居る時には、害虫を駆除するのは殆ど父でした。父は、縁側に置いてあった靴の片方を取り、勢い良く彼を叩きました。芥虫は何処か三半規管をやられたのか、廊下の一部に一寸程の輪を作り、今度は律動的に、又、延々と、ぐるぐると回り始めました。あの、気味悪さ。私は、全身の毛穴を収縮させ、肌を、鳥の毛を毟った後の様にぶつぶつとさせて仕舞いました。あの大事件には今も猶、恐怖して居ります。父は、その不様な、然し、おどろおどろしい芥虫に、容赦無く止めを刺しました。ぴたりと静止して残骸と化した彼からは、異様な色彩をした物がぐにゅりと飛び出て来ました。そして、怨みの篭った、無音の声で、私にこう言ったのです。或いは、私の只の妄想、或いは想像、どちらかだと言う事も考えられますが、私のこの記憶は、彼がこう言ったのを間違い無く聞いていたのです。
 『汝は笑う。私を笑う。侮蔑、冷笑、嘲謔。許すまじとていざ眠らん。』
 私はこの様な経験をし、未だに忘れる事の出来ない映像を常に眼前に見据えて居りますが、然し、芥虫を、今では羨ましく思っているのです。私のこの羨望は、ぐるぐると回りに回って惨死した、彼への罪悪感が齎した物では無く、それは真に単純明快、彼等の性質から仮定した次の思考にあったのです。
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