劣等感

□遺影
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 私がこれから此処に書く事は、或いは自虐的かも知れない。しかし、どうしても書かなくてはならない事件なのである。
 そもそもあの曲は悲しい曲ではない。いや、大切な者を失った悲しみが其処に含まれていない訳ではないが、しかし、そればかりではないのであった。
 今更その様な事を書く必要は無いのであろうが、大人に成り切れないその少年は最近になり、漸くその事に気が付いた。
 少年にはかつて、愛する人が居た。少年は当時七、八歳で、その少年が愛する少女も、同じ歳であっただろう。
 ませた子供であった。しかし、二人はその若さでさえも愛し合っていた。
 性行為は無かった。それは当然であろうが、口付けさえ無く、二人は手を繋ぐ事だけを愛情表現としていた。
 愛しているという言葉も、好きという言葉も無かった。しかし、二人は相思相愛で居るという事を理解していた。
 或る晴れた日の一本道。その傾斜を手を繋ぎながら登る。
 二人が何故其処を歩いていたのか、遠い過去の事である、それはもう思い出せない。
 雲の一つも無い青空が、真上に広がっていた。辺りは、草が短く茂っているばかりで、二人以外に人は居なかった。
「何故、太陽は燃えるの。」
 と少女は言う。
「君を照らす為。」
 少年は事実、そう思っていた。この世に存在するあらゆる物が、少女の為に存在するのだと、そう思わずには居られなかった。
 少年の左手に握られた少女の右手に、力が入る。
 言葉は無い。しかし、少女からの愛情を、少年はやはり、しっかりと理解していた。
 やがて二人は分かれ道に立ち止まり、言葉も無いままに見詰め合っていた。お互いの存在を再認識するかの様に。
 二人は何をするにも一緒であった。小学校では仲の良い二人を冷やかす子供も居たが、それでも彼等は平然としていた。二人はその愛を、互いに誇りに思っていたからである。
 幸福であった。全宇宙に存在する何よりも、彼等は幸福であった。
 幸福過ぎて、二人は意味も無く共に泣く事があった。幸福なのに溢れる涙。彼等は、幸福の残酷さをその恋愛で学んだ。そして後に、不幸の残酷さをさえ学ぶ事になるのであった。
 幸福は、途轍も無く大きかった。しかし、後に訪れた不幸は、それを大幅に上回り、余りにも、余りにも惨たらしい悲劇となって二人を襲った。

 あれは冷たい風が吹いていた季節の事であった。二人は少しばかり大きくなっていた。
 少年は少女を誘い、或る空き地へ入った。二人は厚着をし、暖かそうな格好をしていたが、それでも、顔に冷たい風が刺すのを防げなかった。
「何をするの。」
 と少女は尋ねた。
「これは、知っているかな。」
 少年が上着のポケットから出した物は一本の煙草とマッチ箱であった。
「それは、いけない。身体に良くないわ。」
 少女は当たり前の事を言った。しかし、少年にはその煙草が興味の対象であり、又、人生で初めて経験するそれを、少女に見届けていて欲しかった様に思われた。
「お父さんの書斎から持って来た。一本ばかり良いでしょう。吸い方は、解らないけれど。」
 少女は不安そうに少年を見詰めていた。
 少年はマッチを一本だけ取り出し、箱に擦り火を着けた。その火を煙草の先端に持って行く。しかし、火は着かない。
 少年はそれを不思議に思ったが、試行錯誤をする内に、煙草を吸いながらでないと火が着かない事を理解した。
 火は着いた。しかし、少年は肺の奥へ煙を吸う事を知らなかった為、口の中に煙を入れ、それを吐き出す、この繰り返しばかりをした。
「さあ、良い経験になったでしょう。これは、いけない。直ぐに捨てましょう。でも、此処に捨てるのは駄目よ。近くに、小さな公園があったわね、其処の水道で先ず火を消してから、そして捨てましょう。」
 少女のその提案を、少年は受け入れなかった。
 大人になれた様な気がしていた。そしてその様な自分に、少年は今、悔やんでいる。嗚呼、何故私はあの日、煙草等に手を出したのであろう。しかし、何を思っても、既に遅過ぎる。
「君も、どうだい。」
 少年は左手の人差し指と中指に煙草を挟み、それを少女の口元にやろうとした。しかし、事件は起きた。
 悲鳴が空き地を通り越し、空まで突き刺さるかの様に響き渡った。
 少年は狼狽した。それのみならず、悲哀や罪悪感や不安、恐怖にまで苛まれた。
 少年の差し出した煙草は、じゅうという渇いた音を立て、少女の右目を暗闇という奈落の底に突き落としたのである。
 少年は逃げ帰った。
 何故そうしたのかは、少年自身、今も猶解らない。
 帰宅するなり布団に潜り込み、ぶるぶると震えていた事を覚えている。
 悲劇は、こうして幕を開けたのである。
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