劣等感

□青空の雨
1ページ/2ページ

 その河原を包む大空は、雲が一つもない晴天だった。僕はあの燃え続けている太陽が、雲という雲の全てを溶かしたんだと思った。
 蝉が鳴いている。よく聞けば色々な種類の鳴き方がある。人間達の声の様に、それぞれが違う音色を持っている。
 彼女は僕の左隣で、真っ白なカンバスを見つめて考え込んでいる。真っ白なワンピースを着て、小石の群れが一番に綺麗な所へ座っている。
 僕はそんな光景を目にしながら、僕もカンバスを持って来ていたら、素敵な絵を描く事が出来るのになあと悔しく思った。彼女は美しかった。彼女の周りで小さく茂る草達が、多彩に咲き誇るんじゃないかと思わせるほど美しかった。僕はその風景を、どうしても絵に描きたかった。
 彼女とはもう何年も、こうして一緒に河原を訪れていた。肉体的な関係は一切ない。あえて言うなら、精神的な愛情だけが、二人の間にあると思う。でも、僕達はとても遠く離れていた。
 僕はずっと昔から、死ぬつもりだった。出会った人々に、いつ別れても良いようにと死ぬつもりでいる事を伝えていた。でも彼女には、彼女にだけはどうしても言うことができない。彼女に言えば、きっと深い傷を付けることになるだろうと考えていたからだ。
 彼女は依然として、真っ白なカンバスをただ見つめている。筆を持っている手は動かない。
 僕も依然として、彼女を見つめている。きっと、何時間見つめていても飽きる事はないだろうと思った。
 風が優しかった。そっと僕の頬を撫でる。現実的じゃないけれど、風を不思議に思う。何故生まれて、何故吹くんだろう。科学で証明されている説はどうでもいい。僕はただ不思議に思う。風がやんだら、それは風の死ということなんだろうか。でも、だとしたら風の命は蝉よりも短いのかもしれない。それに、方々に吹く風を一つ二つと数えるべきなのか、それともそうして吹く風そのものが一つであるのか、それがわからない。風が一度吹く、これが一つの風?それとも一度、二度、と個別に吹く風を全部まとめて一つの風なんだろうか。じゃあ、風は逆に、なかなか長寿なのかもしれない。
 彼女はまだカンバスを見つめている。筆を持っている手は動かない。
 ふと空を見上げると、蝶々が僕の頭上を舞っていた。綺麗な色彩の蝶々だった。黄色の中に黒いすじをひいた揚羽蝶。何故こんな所に?迷ったんだろう。蝶々は孤独だった。彼女のように、孤独だった。
 蝶々は、ちょうど僕から見て太陽の下を舞う。太陽の下に蝶々が、蝶々の下に僕が、僕の隣に彼女がいる。僕達は一瞬にして相関関係を築いていた。
 太陽の光が蝶々の羽に差し込んでいる。美しかった。やっぱりこの蝶々は彼女なんだ。孤独も、美しさも、彼女と同じ色彩を持っている。僕は嬉しくなった。でも、同時に悲しくなった。蝶々に、道を案内してあげることなんて、僕はできないんだから。
 僕は無能だった。あまりにも、無能だった。そう言えば、お母さんにもそんな事を言われたっけ。テストの点数が悪いとか、何をするにもとろいとか。さすがお母さんだなあ。僕のことをちゃんと知っているんだ。
 太陽が、とても眩しかった。遠くから見上げても明るい太陽が、目の前にあったらどうなるんだろう。目なんか開けていられないのかなあ。でも逆に、案外たいしたことなんてないのかもしれない。
 ところで、太陽って何色なんだろう。僕はあの太陽の色を不思議に思う。皆は橙色って言うけれど、本当にそうなのかなあ。あの太陽の絵を、きちんと、忠実に描けたら良いなあ。でも、それでも彼女の輝かしさには、足元にも及ばないや。ああ、筆とカンバスと、あと絵の具とを、持ってくればよかった。
次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ