劣等感

□白色
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 その日は月も星も、空も空気も、凍り付いていた。僕の心もそうだった。明らかに凍り付いていた。
 ひっそりと静まり返った夜の路地裏を、僕は歩いている。そして、僕の左後方には、彼女が不満げに何やら愚痴を零しながら、散歩に連れられる犬の様に、僕に付いて来ていた。
 僕は死ぬ気でいる。彼女との残りの数日を、多少なりとも遺憾に思いながら、それでも死ぬ気でいるそれに変わりはなかった。
 そもそも何故、僕が死のうとしているのか、それは実を言うと自分でももう解らない。しかし、断固として死ななくてはならない様な気がしているのだった。
 「ねえ、手を繋いでよ。」
 と彼女は言う。
 僕は後ろを振り返り、彼女の大きな目を見詰める。ただでさえ白色過ぎる彼女の肌が、月や星の光を浴びて余計に白色さを増していた。黄色や桃色には色彩の派生の様な色合いがある様だが、白色の派生は聞いた事も無く、また、それらしい色彩を見たのはこれが初めてだった。僕はすぐに思考していた。白色を更に白色にした白色、これに相応しい色合いの名前を、僕はすぐに思考していた。しかし、思考を繰り返してみても、新しいこの色彩の名前は、終に、生み出せなかった。
 「ねえ、手を繋いでったらあ。」
 彼女はまだその様な事を言っていた。僕は、彼女を馬鹿だと思った。手を繋ぐ理由は、ほら、夜空の様に凍り付いている。
 僕はまた前を向いて歩き出す。誰も僕を救えまい。尤も、殊に救われたいと思っている訳ではないのだが、成る程、それが、しかし、確実なものになってくれた。もう何も思い残す事はあるまい。
 夜空を見上げた。何十年もの間、こうして空を見上げていた。空と僕との距離は、依然として、縮まらない。僕は、それを悔しく思う。何故なら、あの月や星達を、この手に掴む事が出来たとしたら、きっと明日へ続く階段を上る気力が湧いただろうから。
 僕は余りの憂鬱さに、彼女を置き去りにするかの様に歩を進める。そしてその一歩一歩が、秒針の様に規則的に、且つ、事務的に、死へと向かっている事を改めて発見した。やがて、路地裏の道は路地裏の道という形をやめ、表通りに変化した。しかし、そう変化はしても、後ろを振り向けば、歩いて来た小さな、ひっそりとしたその道は歴然と残っている。成る程、所謂「人間」とは、違う。振り返れば、過去はきちんと存在している。いや、或いは「人間」もそうなのかも知れない。「人間」は、振り返る事をしないだけなのかも知れない。
 辺りは、そう高くないビルディングの群れが、幾つか聳えていた。僕は、その「人間」達の産物に、恐怖していた。まるで、途轍もなく大きな怪物に、食べ尽くされる際に感じるであろう、現実離れのした、恐怖感だった。思わず、固唾を呑んでいた。歩を進める足も、棒の様に表通りの片隅にあるばかりだった。
 と、其処へ、彼女が僕の左手を取り、そのまま歩き出した。彼女のその足は、小走りにビルディングへ向かっている。僕は、今度は自分が散歩に連れられている犬の様な気がして、むっとした。ところが、彼女は衝撃的な事を言うのである。
 「あのビルの屋上から、一緒に飛び降りて死のう。」
 僕は、唖然とした。何故なら彼女の目が、余りにも光り輝いていたからである。白色過ぎるその肌は、月光や星の輝きを満たして更に白色さを増していたが、其処へまた更に、暗闇へ突然差し込んだカメラのストロボの様に眩しい白色で顔面を塗りたくった様な、とても目を開けていられない程の色彩だった。しかし、それはどうでも良かった。白色過ぎる白色を更に白色にした白色等、それは僕にとってもうどうでも良かった。唖然としたのは、一緒に死のうと言った、彼女の言動だった。
 僕は、わあっと泣き出しそうになった。理由は、判らない。そして、冷え切っていた筈の心が、一瞬にして解凍された気持ちがした。
 僕はそのまま、彼女に連れられ、ビルディングの屋上へ向かおうとするが、しかし、そのビルディングは、至る所に鍵を下ろし、何処からも、入る事が出来なかった。
 死なれない事は、遺憾に思った。しかし、僕はほっとしていた。それは、死ぬ事が恐い、という様なものの為ではなく、かと言って、死ぬ時期が今ではなかったから、というものでもなく、彼女を、巻き添えにしなくて良かった、という、その為の安堵だった。
 僕はそれ以来、彼女との連絡の一切を絶った。しかし、それからずっと僕に付き纏う感情、それは、途轍もない、白色の静けさだった。

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