劣等感

□精神的殺害
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「貴方になら、私は殺されても構わない。」
 彼女は夢を見る少女の様な目をしてそう言った。彼女は悲劇の少女を演じている。
 僕はこの学校の屋上の真上を包む雲の一つも無い青空を見上げていた。爽やかなこの快晴の下で、僕は憂鬱だった。風は無い。ゆらゆらと揺れる太陽と青空と、これだけが其処に存在していた。街の姿も無かった。いや、よく見渡せば小さくなった家々や駅等を認識出来たのだろうが、しかし、僕の目はその景色の断片さえも映さなかった。これは、或いは社会から逃げ出したい心情の現れではあるまいか。家々や駅を社会として思考するのなら、成る程、それ等を目に映さないという事がその心情の現れか。一理がある。僕は苦笑した。
 僕は階段へ行く扉を閉め、其処に立ったまま寄り掛かった。彼女は屋上の端をうろうろと歩き回り、空を見上げたり下に広がっているらしい町並みを見下ろしたりしていた。
 僕はふと自分の右手に缶珈琲が握られている事に気が付いた。此処に来る前に購入していたのである。僕は蓋を外し、宿命を果たし今やただのアルミニウムの輪になったそれを、自らの左手の薬指に嵌めてみた。子供の頃によくやっていた指飾りだ。
 僕は自分自身の幼い頃を思い出した。しかし、あの頃の僕がもう何処にもいない事は明々白々として居り、思わず苛立ちを覚えた。苛立ち?しかし、苛立ちなのだろうか。或いは諦め?判らない。判らないが、心が不安になっているのを感じた。
「あ、可愛らしい指輪ね。」
 気が付くと彼女は目前にいた。僕は考え事をすると何時も周りの景色を認識出来なくなる。普段は勉強をしたり音楽を聴いたり、そういう時でも雑念ばかりが湧き、何にも集中出来ないのに、何故か頭の中で考え事をする時は、周りの景色が黒色一色になり、やがて色さえも消え、文字通りの無になるのである。これに気が付くまでは、無とは黒色だとばかり思っていたが、いや、そうではなかった。無とは色さえもが無い無色透明の世界である。
「好きよ。」
 彼女はそう言うや否や僕に口付けをした。僕は着ていた黒い毛糸の上着の袖で無心に自分の口元を拭いた。しまったと思った。彼女の前でこの行動は、もはや言い逃れのしようがない。彼女の顔はみるみる仏頂面に変わった。
「愛してくれないのなら、殺してよ。私の事を、殺して。」
 僕は目をつぶった。今度は黒色が目前に広がっていた。成る程、此処は無の世界ではない。
「殺してくれないのなら、此処から飛び降りて、死ぬわ。」
 僕はその黒色の世界でも孤独だった。いや、「黒色の世界でも」というのは間違いだろう。その黒色の世界は現実をより現実的に表現していたのである。黒色以外には如何なる生命も存在しない。黒色と僕だけがただ息をしていた。そして僕は黒色さえない無の世界に投げ出される事を恐いと思う。考え事をする為に無色透明の其処へ幽体離脱をして行くのは構わない。しかし完全に無の世界に閉じ込められる事を、僕は恐いと思う。
 彼女は屋上の四方に佇む柵を登ろうと腕を掛けている。彼女がちらりと僕を一瞥する。
「私は、本当に、死ぬわ。」
 さんさんと燃え続けている真冬の太陽は、何時しか雲の影に身を潜め、青空は何時の間にか灰色の曇天と化した。しかし僕にはその灰色がもう黒色に見えていた。彼女は遂に柵を越え、頼りない屋上の終りに立っている。
「さようなら。」
 彼女の発したその音符は吹き付けた風に瞬く間に攫われ、風と音符との何か不吉な不協和音を奏でながら遠くへ消えた。
 僕はただ彼女を見つめている。二人の間には実質的にも精神的にも、また現実的にも距離があった。しかし彼女の声が僕の耳に届いていたのは確かだし、視力も良くはない僕が彼女の顔を正確に捕らえていたのは、これ等は間違いなかった。
 長い時間が過ぎた。無駄な時間が過ぎ去っていた。だが彼女にとってはとても大切な時間であっただろう。僕は手にしていた缶珈琲と指飾りにしていたその蓋を自分の足元に放った。しかし適切な表現をするのであれば、放ったと書き記すよりも、これ等が手から抜け落ちたとした方が良いかも知れない。
「こっちへおいで。」
 僕は奇妙な程に優しいであろう表情と、甘い甘い声で彼女を誘う。彼女は安堵している様な目で、また柵を越え、こちらへ歩いて来る。僕に近付いて来るその一歩一歩は、彼女にとって幸か不幸か。
 そして僕の両耳は音を聞く事をやめた。鼓膜は震える事を停止し、しんと静まり返った。何も聞こえない。僕にはもう何も聞こえて来ない。彼女は近付いて来る。まるで食虫植物の上を舞う蝶々の様に。
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