劣等感

□憂愁
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 私は目覚めた或る冬の朝、縁側に出てその真上に広がる冷え冷えとした空を見上げた。咲き乱れた曇天は一面が灰色なばかりで、まるで誰かの本質を映し出していた様で私は苦笑せざるを得なかった。
 私は煙草に火を着け、それを吸い終るや否や寝間着から小綺麗な和服に着替え、往来に出た。
 行く宛は無かった。いや、用事は確かにあったのだが、しかし、私を待ってくれている様な場所は何処にも無いのであった。私はただただ事務的な毎日を送り、私の周りの人間達でさえ事務的に私を受け入れているのに過ぎなかった。
 静かな裏道をゆっくりと歩いた。空気は冷え冷えとしていた。そしてやはり私でさえも芯から冷えきっていた。
 ふと或る家の庭から視線を感じた。私は視線を浴びるのが嫌いだ。しかし恐怖感は無かった。振り返る。一匹の犬が私を見るともなく見詰めていた。私は目で挨拶をした。犬がそれを受け取ってくれたのは私の錯覚ではなかった。
 やがて私は或る駅に着いた。何時もの様に人もまばらな駅である。その駅の昇り専用のエスカレーターは妙に細長く、私はそれに乗ってみたが、どうも張り詰めた何かを感じていた。或いは今度こそ恐怖だったのかも知れない。しかし判らない。そのエスカレーターの細長さが、私をただ嘲笑していた。
 私は妙な心持ちになり、用事を反古にして自宅に引き返す事にした。いや、どうも按配が悪い。
 その駅には下りのエスカレーターが無い。私は上りのエスカレーターを上りきってから自宅へ戻る為に階段を下りた。しかし、階段さえもが私を嘲笑していた。私は階段を下りていたのではない。不様に転げ落ちていたのであった。
 嫌な感覚ばかりが私を襲っていた。しかし、不安を感じてはいなかった。或いは恐怖を抱いていたのかも知れないのだが、もう何も思い煩うまい。尤も、それが簡単な事であるのなら、何も思考したく等ないのだが。
 曇天は相変わらずどんよりとしていた。恐怖感…か。例え私が恐怖していたとして、しかし、それでもその曇天は私にとって心地が良かった。
 帰宅する為に往来を引き返している。行き交う人は無くひっそりとしていた。いや、或いは誰かしら擦れ違った人々は居たのであろうが、少なくとも私には行き交う人々を認識出来なかった。
 もう一度犬に会おうとした。しかし、私はその犬が居る家に辿り着く前に、一人の女性の発した声に引き止められてしまう。
 「あら、やはり貴方だったのですね。何をしているのかしら。」
 彼女は私の深く信頼する女性であった。付き合いも長かった。私は少し心持ちが暖かくなり、そして微笑した。
 「お久し振りです。僕は用事がありましたが、いや、どうも憂鬱で。或る約束を反古にして、これから自宅で小説でも書こうと思っていたのです。」
 彼女は曇天さえ吹き飛ぶ様な笑顔をしてみせた。
 「そう。まあ憂鬱な時にこそ、良い作品が生まれる事もある様ですからね。」
 「しかし、お茶でも如何でしょう。此処で会ったのは偶然に過ぎませんでしょうが、偶然は必然という事でもあるのです。」
 彼女は可愛らしい表情で小さく噴き出した。
 「相変わらず詩人ね。お時間があるのなら、構いませんわよ。」
 私達は駅から少し離れた屋敷の様に広い或る料亭に入った。そして其処で軽く食事を済ませてから、私はお酒を注文した。
 「朝…とは言えもうお昼に近いのですけれど、この様な時分からお酒を呷るだなんて、お止しなさい。」
 「なに、軽く飲むだけですよ。」
 「毎日飲んで居らっしゃるらしいわね。」
 「ほう、妙な噂ですね。」
 「貴方は、案外有名人ですから。」
 「止して下さい。あれは名誉ではないのです。余りにも、不名誉です。」
 「良いではないですか。声だけで人の心を魅了するのは、そう簡単な事ではありませんから。素晴らしい事だと思いますわ。」
 私はこの辺りからいよいよ歴然と恐怖を感じ出した。
 「しかし、お金の為なのです。所詮、僕はお金を稼ぐ為だけに音楽をやっているのです。」
 彼女は何かしら考え込む様な表情をしてみせた。しかし、この話は料亭の四方の壁に吸い取られるかの様にして終り、やがて酒が食卓の上に置かれた。
 「メリークリスマス。」
 彼女のその言葉に、私は少し思考し、そして理解した。成る程、今日はクリスマスである。
 「すっかり忘れて居りました。メリークリスマス。」
 私は彼女にも酒を勧め、二人は飲み始めた。色情と、又、愛情に近い何か、この二つの情報を、無意識の内に互いに通信しながら。
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