劣等感

□待ち人、来ず
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 「空白」という言葉が御座います。この言葉は、今の私を表現するに当たって、真に相応しいと、痛切に、とても痛切に、理解致して居ります。
 あの人が居ないというだけで、これ程までに空白になろうとは、正に、想像を絶するものでした。
 病室の窓から、白い雲を見る事が出来ます。遺憾な事に、青空の断片も、私の瞳には映してくれません。けれども、ボードレールのその著書「巴里の憂鬱」の異人さんという題の詩にもありました様に、雲を好きと言った登場人物の心情を、私はこの時、初めて理解し得たのでした。

 この病室は、どうして、これ程までに孤独なのでしょうか。この病室自体がもう空白で、どれだけ頑張って泣かない様に努めてみましても、しかし、私の視界は滲み、あの綺麗な白雲さえ、汚してしまう。
 ごめんなさい。環境ホルモンを作り出して居りますのは、この、私です。ごめんなさい。ごめんなさい。
 本日は、あの人もやって参りましょう。多忙の人ですので、中々時間を作れないのです。本日は、あの人もやって参りましょう。ですから私も、頑張らなくてはなりません。泣いては、いけないのです。

 軽快で、空白な音。父母の、扉を叩く音でした。
 父母は神妙な面持ちで病室に入られて、私を見るが早いか、大粒の涙を流しました。私はこの時、初めて父の涙を拝見致しました。なんて、美しい涙なのでしょう。堪えて居りました私の涙も、ぽろりぽろりと流れ落ち、ごめんなさい。ごめんなさい。

 父母は自殺未遂した私を咎めるでもなく、悲しい瞳の奥にある優しさで、私を、ただ見詰めています。
 恥を承知でお尋ね致します。
「パパ、ママ、あの人は?」
 母は私の瞳を見詰めながらかぶりを振って、また大粒の涙をぽたぽたと落としました。
 そう、と私は消え入るような声を放ち、瞳を閉じてしまいます。そしてその暗闇に映るのは、他でもない、あの人でした。
 私は急に苦しく、そして悲しくなりまして、夕立の様な多量の涙を流します。声が口から漏れては、消える。お父様、お母様、見ないで下さい。今一度、今一度、瞼をお閉じ下さい。

 ふと、父の優しい声。
「こんな状況でお前に言うのは、余計にお前の心を悪くするかも知れない。だが言わせて貰う。もう、あいつの事は忘れるんだ。お前がこんな状態なのに、あの男は、他の女と…。」
 父の声が震えたのを、私は確かに聞き取りました。そしてそれから直ぐに父は嗚咽なさって、病室は余計に陰惨なものへと変わりました。
 ごめんなさい。この言葉が喉までやって参りました時、しかし私はこの言葉を飲み込んでしまいました。この言葉は、厭らしい。いいえ、この言葉は素敵ですけれども、それでも、今の私には、厭らしい。なんて、卑しいのでしょうか。

 ふと病室の外のあの雲を見上げました。天使の通り道が、とても綺麗に、まるであの人の心の様に綺麗に、輝いていました。
 私はそれを眺めている内に、少しだけ微笑して、生きて行ける気が致しました。けれども、我が儘を一つだけ、この人生最後の我が儘を一つだけ、どうか、お聞き入れ下さい。あの人を、どうか、此処に連れて来て下さい。空を通る一本の天使の通り道の様に輝かしい、あの人をどうか此処に、連れて来て下さい。

 父母は、また明日に来ると仰って、病室を後にしました。
 私は弱々しく手を振って、扉の閉まるのを確認致しました後で、もう一度、輝かしい空を見上げました。
 不思議な事です!天使の通り道には、あの空想上の赤ん坊の様な美しい子供達が、くるくると回って、遊んでいます。なんて、微笑ましい光景でしょうか。なんて、平和な事でしょうか。
 きっと、あの人がこれから、訪れるのね。あの人が、来て下さるのね。私の好きな林檎を一つだけ持って、「どうしようもねえ奴だ。」と言いながら、訪れるのね。
 …好き。愛しているの。乱暴だけれどもとても優しい、あの人を好き。

 私は天使の通り道を見詰めながら、小声でこう言いました。
「有り難う、天使君達。」
 私は微笑みながら、そのまま眠りに就きました。

 目を覚ましましたのは、もう、翌日の朝でした。
 待ち人、来ず。でも、明日は…。



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