劣等感

□君への手紙
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 恐らく僕のこの気難しさは、最早矯正が不可能な程にまで達している様で、この様な一種の欠陥に君が振り回される必要は、もう無いのだと思われます。
 例えば、氷が真夏の太陽の熱に溶け出す様に、この恋愛であるらしいものも溶けて行くのが僕には見て取る事が出来ます。
 僕は、もう、ただ、辛いのです。それは一つには、僕の苦悩を理解出来ない君に傷付いたりする訳ですけれども、やはり一番に辛く感ずる事は、君が僕という悪人に騙されている事実なのです。
 僕の何処が悪人なのか、しかしそれを書き記したりしてみた所で君には何も伝わりませんし、また、書き記す意味もありません。ですので、それは省略させて頂きますが、成る程、例えば僕の肝臓が悪かったとして、それに因る体調の変化が身体の何処かに表れる事はあっても、悪くなった肝臓自体を肉眼で見る事は不可能です。因りて、僕が悪人だという事実に、君が気付く訳は無いのです。つまり、君がどれ程僕を美化しようが、僕が悪人であるというこれは明確な動かぬ事実という事に相成ります。
 もう、行きなさい。僕のこの気持ちは、旅に出る人を海原へ送り出す様なものなのだと思われます。僕は間違っても君を憎んだりはして居りません。都合の良い事を申し上げさせて頂ければ、この感情は、例えば春の午前中に、芝生が広がった其処にひらひらと舞う蝶、聞こえる物音は緩やかな風の音だけ、その様な平和な日に生まれたての太陽の光を受けて咲いた愛情の様なものとも考えられます。しかし、いかんせん、この感情は愛情でないばかりではなく、僕にはこの感情の正確な名称を書き記す能力は皆無です。愛情でも憎悪でも無い無難な感情だとでも受け取って頂ければ、もう、僕はそれで良いのです。
 もう、行きなさい。例えばその先に嵐が待ち受けていても、死ぬまで生き続けなさい。嗚呼、しかし、残念な事に、君は弱過ぎる。例えば食物連鎖の最も底辺にいる動物の如く弱々しい…。僕はそれを考えてしまうと不安で仕方がありません。しかし、それでは、この機会にこう致しましょう。つまり、こうして、赤子の様に純真で、無垢で、そして無智な君を突き放すのは、いいえ、捨てるのは、悪人の成せる業なのです。
 もう、行きなさい。そして僕は自由になるのです。他の女性を抱く事もあるでしょう。堕落という堕落をさえ経験するでしょう。しかし、これで良いのです。僕は自由を手に入れるのです。そう、真の自由を。白いカンバスを何の趣向も無く白色に塗り立て、そうして傍目から見ると買ったばかりのカンバスと何も変わらないくらいに退屈な、憂鬱という名の自由を。

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