劣等感

□痴話喧嘩
1ページ/4ページ

 私は、この日になったばかりの時分、つまり深夜ないし早朝、砂浜へ向かい、一人で歩いていたのである。
 理由は、全くつまらない。夜の海を見たいだとか、ひんやりした田舎道を歩いてSentimentalismに浸りたいだとか、こうした理由では決してなかった。死ぬつもりで、浜辺へ向かっていたのである。
 と言うのも、それは日付が変わる直前の出来事が、原因していたのである。
 その前日、私は我が恋人と、彼女の祖母宅へ行ったのであった。
 其処には彼女の親戚、通称毒舌家も居り、私は以前、まだ長髪にしていた時分に、中年の女性であるその毒舌家と会った事がある。その時に、その人は我が恋人にこう言った。
「おう、この男は、女にゃあもてないよ。だから、なあんにも心配するこたあねえ。」
 我が恋人はその毒舌家に対して、何も知らないのね、という様な表情をしたが、しかし私が女性に好かれないというのは正に然りである。私は、
「ええ、その通りですよ。」
 と言った。
 すると毒舌家は、
「そうだろう。見れば、判るんだあ。」
 と、まるで全てを見透かしているかの如き口調で、これを付け加えた。
 その様な過去があったが、私は今回、毛髪を短くしてその人と会った。毒舌家の態度は、一変していた。
 その人は居間に居た。私は我が恋人と其処へのっそりと入り、その人を認めるが早いか挨拶をした。すると毒舌家は、それこそ広く大きい家ががらがらと崩れるかの如き慌てた声で、
「ああ? これあ、前の、彼氏かえ?」
 我が恋人は一言に、
「ええ。」
 毒舌家は、
「いやあ、最初に見た時にゃあ、長髪で、随分ださい男だと思ったが、しかし、髪が短くなって、似合っているじゃないか。これじゃあ、女にもてるだろう…!」
 まるで感嘆のご様子。前に述べた事と正反対の事を言っている。私はそれからも、その毒舌家に始終褒めまくられ、実に返答に窮したものである。
 そうして、この、言わば褒め殺しが、翌日になったばかりの時分に起こった、小さい大事件の原因に、なってしまった訳である。
 と言うのはつまり、毒舌家はひたすら私を褒めたのであるが、対象的に我が恋人は、いや、もう、批判、批判、批判。批判ばかりをせられたのであった。
 それは私の見解では、例えば可愛さ余って憎さ百倍というこの文句に類似する様に、可愛いと思っているからこそ、言う事の出来る暴力なのではあるまいか。我が恋人は、まあ、ストレートな言語で此処に書き記すのであれば、「ぶす」だとか「でぶ」だとか、こういう様な言葉を少し遠回しに言われたのであった。
 傍目から見て、私はやはりその毒舌家に悪意のある様には感じる事が出来なかったが、我が恋人は傷付きやすい性質であるから、ただもう床に溶けてしまいそうな程に沈み切って、そうして私は、彼女の救いになる様な言葉の一つも差し出す事が出来ない。
 私が毒舌家に向かって、「それは、言い過ぎです。」の一言を言う事も出来たであろう。しかし、他人の家庭に上がり込み、その様な発言をするのも如何なものかと、私にはこう思われて仕方が無かったのである。
 私は、その小さい家庭の中でも、無力だった。
 日付が変わり、毒舌家の暴言から逃れるかの如く、煙草を買いに行こう、と小さく誘う彼女の声に、私は頷いた。
 事件は、私達の直ぐ真後ろで、息を潜めていた。


次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ