劣等感
□酒場の一隅
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その夜、私の飲み歩きたかった友人とは誰とも連絡が付かず、一人で飲み歩こうと私は考えた。しかし、どうも誰かと討論をしたいらしかった私は、流石に一人で、というのも興醒めするばかりだと思ったから、我が恋人に電話をし、近くの居酒屋まで来てくれる様に頼んだ。彼女は、暗い声色で了承し、私は一人、薄ら寒くなった夜に憮然と佇む或る居酒屋の前で、居酒屋を背にする形になって彼女を待つ。
居酒屋の中からは、既に出来上がっているらしい中年と思しき者の笑い声や、若者の容赦無い嘲笑の如き大声が私の背中に届いた。
私は恐怖を感じ狼狽して、その場を走って逃げようかと思ったのであるが、世の中には逃げて済む様な事ばかりではない。つまりあちら側の下衆な人間達と、嫌でも付き合わなければならぬのである。しかし、それは余りにも精神の疲労を来たすものだ。
私は、こうした闘いに就いて、ふと思考する。
私は最早、往来の寒気を忘れるくらい、一人でこの問題に頭を悩ませていた。そうして、恐ろしい敵を味方にすれば闘わなくても済む訳だから、この応用で、あちら側の人間、つまり判りやすく書けば、酩酊者どもの仲間になってしまえば問題無し! という答えに行き当たった。
なあんだ。私は安堵した。
彼女はまだ来ない。私は待つのが苦手である。それを誰よりも知っている私を待たすとは、中々良い度胸である。私は次第に気分を損ねた。携帯電話から、彼女に電話を掛ける。そうして、彼女が「もしもし。」とも言わぬ内に、
「君は一体何時まで待たせるつもりかね。」
彼女はやはり暗い声で、
「まだ五分も経っていませんわ。」
私はむっとして、
「良いかね。君は五分を馬鹿にしている様だが、しかしね、五分を笑うなんて、それは許されないものだ。一円を笑う様なものじゃないか。」
「不適切な比喩ですわね。」
私は憤激して、最早言い返す言葉を見付ける事が出来なかった。どうして一言、はい、と言う事が出来ないのであろう。いや、無論、私の持ち出した比喩がお話にもならない事等知っている。笑いを取ろうとしただけなのに、彼女は可愛いげも無くこの言い草。もう少し頭を柔らかくして考える事が出来ないものであろうか。全く面白くない。まあ、良いから、早く来なさいよ。
「早く来なさい。腹が減っては戦が出来ぬ。」
「どちらへ戦へ行かれますの?」
殴ってやろうか。
「君、こうして電話で話しているだけでもね、時間が経つのはあっという間なのだよ。早く来るという気遣いは出来ないのかね。」
「あら、もう貴方を見付けましたわよ。」
「見付けた? 僕の何を?」
「(バスガイド宜しく)右手をご覧下さい。」
言われる通り右手側を振り向くと、彼女が無愛想な表情で、こちらへ歩きながら小さく手を振っていた。私は大きな溜め息を吐き、これでもかというくらい大袈裟な動作で電話を切った。電話を切る人差し指を、頭上から大きく振り下ろした訳である。
それから私達は、その居酒屋へ入った。