劣等感

□恐ろしき夢
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 最近の僕は眠れば必ず夢を見る。良い夢は殆ど無い。いや、全く無いと言っても過言でない。悪夢ばかりを見るのである。異形の者達から逃げる夢、崖から墜ちる夢、蝉や芥虫に囲まれる夢、刃物で腹部を刺される夢、水に溺れる夢、中でも殊に恐ろしかったのは、僕が人を殺す夢である。これは、目覚めてからもその罪悪感に苛まれる程に、現実味のある夢であった。
 しかし、それをさえ凌駕する程の夢を、僕は見たのである。その内容を要約して書き記すべく、この「恐ろしき夢」という、題名からして駄作の小説は生まれた。

 僕は僕の恋人と、何処かの旅館に居る。他にも僕達の仲間の者(男性)が大勢居たけれども、結末には彼等は関わらぬから、夢の冒頭、それは省略す。
 その旅館の薄暗い一室で、ふと気付くと、食卓の上に丁寧に包装せられた、何やら贈り物の様な小さいものが乗っていた。彼女が仲間の者から首飾りを貰ったらしい。彼女はそれを喜んだ。僕は嫉妬した。
 いや、嫉妬と言えば嘘になろう。正直に言えば、彼女は僕が他の女性から頂戴したものに嫉妬して、何時も愚痴を零していた。愚痴と言っても、深刻極まるものではない。あくまでも可愛らしい程度である。しかしそういう時は、彼女は始終仏頂面になっているから、僕は大体憤怒する。「しつこい云々」と言うのである。
 そういう事があるのに、何故に彼女は首飾りを貰って喜ぶのか、僕には判らなかった。僕には怒ってみせるのに、自身の時にはその態度―。僕はやはり激怒した。
「俺が他人から何かを貰ったとしたら、君はぎゃあぎゃあ煩いくせに、君は、良いのかね!」
 ぎゃあぎゃあ。下衆な言葉であった。それは夢の中の僕も、理解はしていたけれども、僕は憤激した際には言葉を選ばず、何時もそう罵るのである。
 事態は悪化した。彼女の顔は室内の暗色も手伝って、真っ黒になった。
 僕達は気まずいまま外へ出る。恐らく、酒を買いに行くのであろう。道は細く、旅館の室内よりは明るかった。そうして、人通りは殆ど無い。
 僕は気まずい雰囲気に耐え切れず、普段通りに彼女に話し掛けた。
「しかし、寒いね。」
 彼女はそれに就いては答えなかった。どうやら無視しているらしい。
「まだ怒っているのかね。もう、良いだろう。」
 彼女の唇は、接着剤でとめてしまったかの如く閉ざされていた。
 僕は屈辱を感じた。憤怒の念が消えた訳ではないが、それでもこうして下手下手に出て事態の収拾を図っているのに、憮然としたその態度に、僕は屈辱を感じた。のみならず憤怒の念は益々燃えて、僕は終に怒鳴り散らした。
「この野郎! 聞いているのか!」
 僕の太く大きい声は、その細道に響き渡った。そうして、それが反響している様な気もしたが、その辺りは怒りの所為で定かでない。
 僕は彼女を睨み据えた。辺りは静止したかの如く無機質になり、その夢の中には彼女と僕とだけが生かされているかの様である。
 彼女はこちらを見ている。その表情は、思考する事をやめてしまった者の如し。僕は少し冷静になる。けれども彼女に、例えば焦点を合わせた僕は、其処から目を離す事が出来なかった。詳しい理由が僕には判らない。僕に判らないという事は、きっと他の誰にも判らない。
 そのまま暫く、やはり静止画の如き風景の中で、僕は彼女を睨み据え、彼女は無心にこちらを見ていた。が、しかし漸く、彼女の声は発せられた。
「そんなに私を睨み据えて、貴方は今、自分のその目付きの事を考えて、自身に酔っていらっしゃるでしょう。嗚呼、俺は、なんて格好良いのだ、等と。」
 僕は驚愕した。
 僕が最初に彼女に言った「ぎゃあぎゃあ」という言葉よりも、これは下衆な言葉だと思った。僕は彼女の言った様には考えていない。微塵もその様な事は考えていなかった。僕は目を丸くして唖然とした。
 ほとほと呆れ果てた。僕がこれ程下手に出ているのに、彼女がまさか、その様な下衆な言葉を吐くとは思ってもいなかった。僕は怒るでもなく泣くでもなく、また笑うでもなく、呆れたのである。どうやら、憤怒の念は往来の寒気に凍り付き、粉砕したらしい。
 そうして、事件は起こった。


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