劣等感

□酒飲みの一日
1ページ/2ページ

 或る夜の事である。
 私は友人と居酒屋へ出掛け、出入口に近いカウンターの席に座った。我々は二時間ばかり酒を呷ったが、その時分にはまだ酩酊して居らず、文学論を真面目に話し合っていた。
 平日の夜だった為か、店内は閑散とし、店員が暇そうに欠伸をしている。偶々それを発見した私は、貰い泣きならぬ貰い欠伸をし、それでも友人との文学論に熱を上げた。が、それもいつしか脱線し、下らぬ疑問を交わし合っている。
「しかし、あれだ。比喩はあくまでも比喩であろうが、例えば毒を喰らわば皿までというのを挙げてみよう。皿まで喰ったら、歯が折れるのではないかね。」
 友人は難しい顔をして、
「然り。けれども尋常でない顎の力を持っていれば、皿を砕くのは容易ではあるまいか。」
「いや、それはそうかも知れないが、飲み込むのはどうだろう。喉が血だらけに。」
「いや、石とかを食べてしまう異食症もある。そういう人達なら、或いは容易いのではないか。」
「そうかしらん。それにしても、この諺は一寸居直り過ぎだとは思わないかね。」
「思う。まるで君みたいだ。」
「殴られたいのか!」
 我々はこの話題を肴に、更に酒を煽る。気持ち良くなって、違う店に梯子する事にした。
 閑散とした店内を出ると、外も閑散として居り、退屈そうなそれに、しかし平和で同時に清々しいそれに、体内に取り入れたアルコールが全身を駆け巡るのを私は感じた。
「君、大変だ! 道が、ぐにゃぐにゃと曲がっている!」
 大声を出す私を迷惑そうに、友人は、
「この酔いどれが。此処は直線の一本道だぜ。君がふらふらと千鳥足で歩いているからそう感ずるだけだ。だが、斯様な細い道で、車が暴走して来やがる。うわ、危ない。」
「君こそ酔っ払っている。よくご覧。車は停まっている。君が千鳥足で向かっているのだ。」
 我々は顔を見合わせて大笑いした後、互いに肩を組み合い、歌を唄い出した。
「私は酒飲み。死んでも酒飲み。おうおうおうおう、酒飲みさ。」
「一に酒さ、二に酒さ、三にも四にも酒なのさあ。」
「ご覧、月も星も酔いどれさ。私は酒飲み。らららららららら、酒飲みさ。」
 さて、その細道を奧へ行くと、老舗の居酒屋が点々と並んでいる。そうして、その隅に、暗い雰囲気を醸し出す中年である男性の占い師が、其処で商売をしていた。小さい机上に淡色の電気スタンドを立て、こちらに向けて「手相占い、五千円」と記された紙を貼っている。
 私は、言うまでも無くその占い師に話し掛けた。
「どうして此処で商売を? 駅へ行けば、もっと占って欲しい人が居るだろう。」
 占い師は消え入りそうな、しかし太い声で答えた。
「駅では客が中々居りません。こうした場所の方が、意外性もある為か、占って欲しいと仰る方が多いのです。」
 すると友人が、
「意外性? やめ給え。此処は居酒屋の多い道だ。どうせ客は泥酔の者ばかりだろう。意外性だなんて、とんでもない。占って貰っても、酔いから覚めた翌日には誰もが後悔の雨の中さ。つまりあんたの客は、一時の勢いだけで占って貰ったのさ。何が意外性だ。ふざけやがって。僕はね、占いを信じない。どんな根拠があって人の人生に介入するのかね。」
 私は友人を押さえ付け、占い師にこう言った。
「まあ、此処は僕が貴方を占って差し上げましょう。何、大した事はありません。僕のは手相占いの様に大層なものでなく、人相学に基づいたものでしてね。本来なら一回の占いで瓶ビールを五年分程頂くのですが、貴方にお会いした記念に、無料で占って差し上げましょう。おや、出ましたよ、結果が。娘さんがいらっしゃいますね。良いお年頃だ。未婚でしょう。紹介しろ。そうして、占い師さん、貴方はその娘さんと軋轢が生じている。という事は、やはり紹介しろ。それから…、」
「やかましい! 僕の前で占いの話はするな!」
 友人は激怒して、私の腕を掴みその道に点在している一つの居酒屋に入った。そうして、やはりカウンターの席に私を座らせ、彼はその左隣に座った。憮然としている。
「畜生! 占いなんざ、糞喰らえだぜ。酔いが完全に覚めた。酒だ。酒を頼み給え。」
 私はウイスキーと肴とを店員に頼んだ。それ等が運ばれて来るのに、大体十分くらいの時間が流れたが、友人は相当占いを嫌悪しているらしく、占いに就いての憤懣を延々と述べていた。私は、それにただ頷くばかりであった。が、彼曰く、彼は占いではいつも悪い事ばかりを予知されていた様で、その為に占いを、まるで敵の如く憎む事が常となっているらしい。成る程、占いを嫌悪する理由は解る。けれども、占いで毎回悪い事を言われるとは、それはそれで凄い事であると思われるのだが。


次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ