劣等感

□天国への落下
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 殺さなければ殺される。殺さなければ、殺されるのです。つまりそれは、自身が悪人にならなければ、悪人に討たれるという事なのです。
 僕はいつしか、アルコールを飲む様になっていました。それは僕の抱える不安や恐怖を払拭する為の手段のみならず、最早、悪人になる為の手段でさえありました。
 僕はアルコール中毒者になりました。目が覚めてアルコールで喉を潤わし、仕事へ行き、便所でそれを摂取して、昼食の際には食物をこれで流し込み、その後もやはりアルコールを摂取して、夕飯時にも、眠る前にも摂取してしまいます。僕は、そうです、人間でいる事でさえ、失格されたご様子です。
 僕は暴れ、狂いました。部屋を滅茶苦茶に荒らし、他人に危害を加え、いいえ、人ばかりではなく動物や植物にさえ八つ当たりをし、いつしか、友人は離れ、連絡も取られず、真っ黒の部屋に、この膝を抱えました。
 彼女は或る日言いました。「貴方なら、一生に於いて愛し続ける」と。
 僕は、ぷっ、と笑いながら、同時に泣いて、彼女を愛しく思いながら、そうして、憎みました。僕は彼女を、綺麗事の上に綺麗事を塗った、ただの宝石好きの人間にしか見えませんでした。何故ならそれは、流れる時間に変わり果てた僕を見て、絶対に朽ち果てる愛情だからでした。宝石の綺麗である時は愛す、しかし、それをふとした時に地面に落とし、罅が入ったり汚れたりしたならば、我が子を傷付けられた時に感ずる様な痛みと、憎しみとを抱き捨てるのです。
 僕は彼女の綺麗事を打ち壊したく、何度も何度も堕落しました。お酒は毎日、多量を摂取、居酒屋で酩酊し暴れ狂い、人を殴ったり、女人を抱いて、動物に八つ当たり、会社では、意味も無く上司に反抗、故意に必要なる書類をシュレッド、会議では居眠り、遅刻、早退、欠勤、無断欠勤、その果てに会社は僕を馘首、社内の誰もが閉口した訳です。
 仲の良かった友人達は、「君は、しかし変わってしまった。」とだけ僕に告げ、そのまま行方が知れなくなりました。僕は、泥酔が為に呂律の回らぬ舌で、「うふふ。これで僕の勝ちだ。」と呟きます。しかしこれは、真理ではないでしょうか。貴方方のお連れ様、その隣に居られる方が、突如として発狂し、自分を忘れ、気の違った者の様に殺戮を繰り返したり、或いはまた、性交を繰り返したりするのです。その場合、それまでに誓った愛情や友情を貴方は死ぬまで、貫き通す事が出来ましょうか。
 「貫き通す。」を選ばれた方は、中々お美しい思想の所有者です。人間はそうでなければなりません。けれども、自分にはその様な確固たる信念は無く、また、自分の周りに居る者にも、そうした意志を持つ者は居ない様です。
 然れども、嗚呼、然れども、彼女だけは、堕落を繰り返す僕の前から中々去らぬのです。僕は更に酒を呷ります。吐いても吐いても飲み続けます。綺麗に咲きたるお花を、その花瓶毎壁に投げ付けてやりました。お魚達の泳ぐ水槽も、引っ繰り返してやりました。
 彼女は泣きながらしかし怒りました。僕を人非人とさえ呼びました。それでも、僕は止まりません。食卓に楽しそうに乗った、彼女の作ったお料理も、お皿毎窓の外へ放りました。彼女は僕を平手打ちします。僕はきっと彼女をねめつけて、それでも、ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てました。彼女は出て行けと言います。二度と顔を見せるなと言います。僕は「僕の勝ちだあ!」と、ほぼ狂人の様になって、その場を去りました。
 彼女はきっと、僕の投げ付けたお花やお魚、お皿等を、健気に拾い集める事でしょう。僕は胸の痛む気がしましたが、それでも、やはりお酒です。お酒で痛みを緩和させ、僕は言います。
「僕の勝ちだあっ!」
 実際、もう、僕には誰も居なくなりました。独り法師になりました。そうして、僕の思っていた様に、一生涯愛す等という事は、有り得ない事であると証明されました。僕が勝利を納めたのです。
 僕は傷付かぬ様、殺されぬ様にとして悪人になりました。これで理解し得た事、それは、悪人の孤独でした。それでも、その孤独が清々しく、そうして、真実でした。
 僕は都内の某所、橋の下に暮らしています。毛髪はぼさぼさになり生気無く、お風呂にも入っていませんから、とても悪臭のする気がします。
 今日も隣人の浮浪者を石で殴り付け、お酒を、或いはお金を奪います。それもし尽くしました。そろそろ引っ越しの時期になりました。
「僕の、僕の、僕の勝ちだあっ!」
 最近では可憐な妖精が見えます。



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