劣等感

□雨降りの暗い道
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 雨降りのその夢の中で、私は暗い道を歩いている。それは細く、人通りの少ない、閑散たる道である。
 とは雖も、私の前を歩く者が二人だけ居る様である。一人が若者であるらしい女性で、その後ろを歩く者が泥酔の者。彼は髪がぼさぼさで、その足取りは酒の所為か、覚束ない。
 小雨が路肩を濡らし、ぼんやりとした橙色の景色を不気味にさせる。今にも異形の者が現れそうでさえあった。
 私は歩き続けた。何処へ向かうのか。それはどうも思い出されない。しかし私は、着実に何処かへと向かっている様子である。
 暫く歩き続けると、前方左側に、小さい公園が現れた。暗い公園である。誰も居ない。そうしてその公園の手前には、左へ行く道があり、前を歩く若者であるらしい女性が、そちらへ曲がる。続いて千鳥足の泥酔の者もそちらへ曲がり、やがて姿が見えなくなった。
 私は其処を行く予定は無かった。因りて真っ直ぐ歩くのであるが、しかしその横道を通り越さんとするその時、女性の悲鳴を私は間違い無く耳にした。
 その道に目をやった。其処には、先程にこちらから曲がったあの女性と、泥酔の者とが居た。
 何が起こったのか。私は直ぐに判っていた。女性が逃げ、泥酔の者も、その悲鳴に逃亡す。泥酔の者は女性を、その性欲に因りて支配しようとしたのであった。
 私は女性を助けなかった。それは、わざわざ英雄になる気が無かったからであり、且つまた私の身を、進んで危険に晒す様な真似をしたくなかったからである。それに、泥酔の者は悲鳴を上げられた事に因りて、彼女を支配下に入れようとする気を削ぎ落とされた様であったから、やはり女性の身を守る事が、私には無意味に感ぜられた。
 して、私は歩き続け、遂にその道を出る。其処には大通りが広がり、沢山の人間が行き交っていた。これまで歩いて来た静寂なる暗い道が、まるで嘘かと思うくらいに騒々しい。近くで祭りがあったのか、複数名の警備員達が、蟻の群れの様な人々を誘導している。
 私はあの泥酔の者の事を考えた。
 彼はこの警備員達にさえ見付からぬ様に帰宅しようと考えるであろう。しかし、それは可能であろうか。
 詰まらぬ思考であった。けれども、私は更に思考を重ね行く。
 彼は誰であろう。暗くて顔は判然していない。誰であろう。私の知っている者かも知れない。
 やはり詰まらぬ思考であった。しかし、私はその思考を止める事が出来ない。そうして、思考が最終段階に入った時、私は慄然とせざるを得なかった。彼が、或いは私の、誰よりもよく知っている者かも知れないからである。
 いや、有り得ない。彼は間違い無く私の目前を歩いていた。他の誰よりも私の知っている者である訳がない。しかし、確実に見知らぬ人物であるとは言い切られない。私はその顔を、明確に見てはいなかった。絶対に、とは、どうしても言い切られない。

 私は恐怖している。
 彼のその目が、鼻が、口が、舌が、耳が、誰よりも多く見た、私の一番に知っている者の所有物かも知れないのだから。そう、例えば、鏡の中の人物………。



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