劣等感

□雨宿り
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 雨の酷い或る日の事である。
 私はその前日、死ぬ気で酒を飲んだのであるが、言うまでも無く死なれず、しかも或る公園のベンチの上で目を覚ましたのである。
 その日は一人で飲んでいたから、公園で寝ていたという部分は大失態ではあるが、友人達と一緒に酒を飲み交わしていたとしたらどれだけ無様であったであろうかと思考して、私は大いなる安堵を感じた。
 ずきずきと痛む重い頭を持ち上げて、ベンチにきちんと座り直す。そうして、肩に掛けている黒い鞄の中から財布を取り出し、所持金を確かめる。どうやらお金は盗まれてはいないらしい。とは言え、所持していた金額はたかが知れている。けれども、その金でまた酒を飲む事が出来る。
 私は怠い身体を持ち上げて、取り敢えず自宅の方へ向かって歩いた。空は一面が灰色で、今にも雨が降り出しそうである。
 のろのろと自宅へ向かうと、途中に酒屋があったから、私は其処で、所持金の全てを使ってお酒を買った。買った品物はビールとウイスキーとである。そうして、その酒屋を出ると、ぽたり、ぽたり、と肩に落ちるもの。空を見上げて合点、雨が降り出したのである。
 軽快に且つ可愛らしく降り出したその雨は、直ぐに大降りとなり、まるで何か、私を水責めにでも遭わせようとしているかの如くで、地獄を彷彿させたりもする。
 私は走って自宅に帰ろうかと思ったが、しかしその大雨が余りにも私に恐怖させるものであるから、私は酒屋を出て直ぐにある商店街の、屋根がある駄菓子屋の前に、雨宿りをする為に寄った。
 駄菓子屋のシャッターは下ろされている。そうして、気が付くと、私の左隣に一人の、見知らぬ女性が立っている。彼女の退屈そうな表情から察するに、彼女は既に其処に居たらしい。大雨の所為であろうか、私は全く気が付かなかった。
 その女性は何処と無く西洋風の顔立ちで、雰囲気がとても高貴である。彼女の服装は白のワンピースで、年の頃は三十歳前後であろうか。
 私は先ず彼女に疑問を感じた。と言うのは、彼女は傘を持っているからである。
 つまり、彼女は其処で雨宿りをしているのではなく、誰かと待ち合わせをしているのであろう。けれども、その駄菓子屋で待ち合わせをするというのは、どうも色気が無くて不可思議である。そうかと言って、人々の性質は千差万別であるから、駄菓子屋前で待ち合わす人が居ないとも限らない。…
 私は色々と思考しながら、その大いなる恐怖を与える大雨が上がるのを、暫く待った。
 と、数々の店の屋根に落ちる雨の音の隙間から、木琴の音の様に心地良い女性の声が聞こえた。
「凄い雨ですね。」
 幻聴ではなかった。彼女の方を見ると、彼女はこちらを向いて、明らかに私に話し掛けている。ワンピースの白色も手伝ってか、私には彼女の微笑がとても眩しく見えたものである。私は速やかに返答した。
「ええ。しかも、この雨は、どうも不吉です。濡れるのが空恐ろしくて、自宅は後五分程歩くと着くくらいの場所にあるのに、此処でこうして、雨宿りをしているのです。」
 彼女は何度か頷いてから、実に不思議な事を言った。
「私も、雨宿りです。」
 私はちらりと彼女の手に握られている傘に目をやった。傘を持っているのに、何故、雨宿りをするのであろう。
「その傘は、壊れているのかしら。」
 私は尋ねた。
 彼女は透き通った目で私を見て、
「いいえ、この傘は壊れてはいませんけれど、でも、差してはいけませんの。」
「ほう。それはまた、どうして?」
「私にも判りませんの。けれど、貴方がこの雨を恐いと思われる様に、私もこの傘を差すのが恐くって。」
 私は、成る程、と思い、先程、彼女がした様に、何度か頷いてみた。
「雨は、止みますかね。」
「もう少ししたら、止むでしょう。」
 しかし、それにしても彼女の言う、傘を差すのが恐ろしいという心理。私はそれに魅力を感じ、出来る事であればこの雨が上がるまで話し続けていたいと思った。けれども、私はいやに緊張して、それを口にして伝える事が出来なかった。私は雨をただ眺め、そうして、黙り込んだ。
 雨が勢いよく降り注ぎ、商店街のそこかしこにある水溜まりには、商店街をまるで鏡に映した様に実際とは対象的に、しかも雨粒に揺らめいて映っている。私はそれを長い間、見詰めていたであろう。水溜まりに描き出された、雨粒に歪む商店街の光景を、ただ、見詰めていた。


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