劣等感

□首
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 首がもげて落ちた。僕が、殺したんだ。でも、断じて、断じて殺したかった訳じゃない。事故なんだ。甲虫の羽にへばり付いた白い無数の虫みたいなものを、洗い流そうとしただけなんだ。蛇口を捻って水を出した。そして白い虫みたいな無数のそれを洗い流そうとしたら、僕の右手の薬指が甲虫の頭にちょんと触れて、次の瞬間には首が落ちたんだ。殺したかったんじゃない。それは本当だ。でも、嗚呼、そんな顛末なんてきっと誰にも通じないんだ。間違えて人を殺しましたと供述するみたいなもので、結局は罪に変わりはないんだ。どうしよう。黒色とも言う事の出来る暗色のこの部屋に引きこもってみたけれど、嗚呼、四方の壁が次第に僕を押し潰すみたいだ。この部屋にはもう居る事が出来ない。靴を履いて扉を開けて、外へ出よう。嗚呼、空は曇天だ。一面が曇天だ。どうして晴れて欲しい時には晴れてくれないんだろう。しかも、まただ。何時もの様に空が落ちて来る。折角、押し寄せて来る様な部屋の四方の壁から逃げ出したのに、外に出ても空が次第に落ちて来るなんて、現実は何て残酷なんだろう。僕には潰れるより他に道は無いんだろうか。でも、地上の果てには、きっと空も無い安息の地がある筈だよね。彼女を連れて早く行かなきゃ。空がこれ以上灰色になる前に。空がこれ以上落ちてしまう前に。電車に乗って彼女の自宅の最寄り駅で降りた。そこから彼女の自宅まで走って行った。扉を慌ただしく叩くと、彼女はびっくりして扉を開ける。僕は有無を言わさず、彼女の手を掴んで遠くへ逃げるんだ。そう、この地の果てまで逃げるんだ。彼女は僕に尋ねた。どうしたの、何処へ行くの。地上の果てさ、見てご覧、空は一面が灰色だ、そしてほら、もうこんなに空が落ちて来た、急いで、逡巡している暇は無い。遮二無二走った。でも何処も大きなビルディングが聳えるばっかり。あああああ、ビルディングが倒れて来るよ、しかも、行き交う自動車は余りにも速いね、君が轢き殺されない様にしっかり守らなきゃ、もっと手に力を込めて、決して離さないでね。嗚呼、灰色の雨、しかも大降りだ、早く地上の果てを見付けなきゃ、でも何処に行けばその果ては見付ける事が出来るんだろう、行けども行けども、人間の産物ばっかり、泣きそうだよ、誰か教えてよ。嗚呼、大地震だよ、もうすぐ地割れが起こる、大変だ、もっと急ごう、もっと急ぐんだ、えっ、何だって?何を喚いているのかって?だって君、周りを見渡してご覧よ、地獄絵図だよ、地上の果てに隠れよう、ねっ、早く!えっ、何処が地獄絵図かって?見て判らないのかい、空は落ちる、灰色の雨は降る、ビルディングはぐらぐらとして倒れそう、大地震まで来ている、これはまるで悪夢だよ、えっ、何も起きていないって?何を言うんだい、君、どうかしちゃったのかい、えっ、貴方の方が可笑しい?周りの人が顰蹙している?それじゃあきっと、彼等こそがこの地獄に頭が可笑しくなったんだ、大丈夫、僕を信じて、ほら、きっとあっちへ行けば地上の果てだよ、嗚呼、痛い、どうして叩くんだい、目を覚ましてって、それは僕が君に言いたいよ、ねえ、目を覚ましてよ、一緒に逃げよう、生き延びるんだ、はっ、君の首が何時もの二倍も三倍も細く見える、どうしたんだい、嗚呼、神様、どうして彼女にまでこんな真似を!嘘吐き、信じていたのに、あんたは何もしないで傍観しているだけじゃないか、嘘吐き、大嫌いだ、彼女に何の罪があるんだ、馬鹿、偽善者、彼女の首を元に戻せ!…いや、違うぞ、彼女の首をあんな風にしたのは、僕なんじゃないか?だって甲虫の首だって僕は落としてしまったし…、そうだ、彼女の首をこんな風にしてしまったのは僕の所為だ、嗚呼、ごめんよ、でも殺したかった訳じゃない、事故なんだ、嗚呼、今に首が落ちる、君の首が落ちるんだ、あの甲虫の様に首が落ちる、誰か助けて下さい、助けて下さい、助けて下さい、助けて下さい、助けて下さい、助けて下さい、助けて下さい、助けて下さい、誰か助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けてよ、助けて、助けて下さい、誰か、彼女の、首が、下さい、助けて、彼女、下さい、助けて、首、助けて、彼女、下さい、首、助けて、………



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