劣等感

□胃痛
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 男はやって来た。時分は午前の三時である。私は歓喜するでもなく、また顰蹙するでもなく、溜め息混じりに男を迎えに玄関へ行く。男は泥酔していた。
 私は男に肩を貸し、居間へと運んであげる。男は無遠慮に食卓の傍の床に寝転んだ。
「酒だ。酒を出してくれ。」
 私は少し間を置いて、
「しかし、もう既に泥酔しているみたいですので…、」
 男はそれを遮った。
「俺から酒を取ったら、一体、何が残る。(噴き出して、)こいつあ可笑しい。俺から酒を取ったら、俺は人間でなくなっちまわあ。」
 私は渋々とお勝手の冷蔵庫からビールを取り出して、それを食卓に乗せると、
「君、冗談を言っちゃいけない。こんな日はブランデーと決まっていらあ。何か、置いてなかったかしら。」
「カミュでしたら。」
「持って来てくれ。」
 私はビールを冷蔵庫にしまい、棚からカミュを取り出した。食卓に置き、氷を用意する。そうして、グラスに氷を入れて、酒を注いだ。
「用意が出来ました。」
 男は眠たそうな目を無理に開いて、よろよろと立ち上がり椅子にだらしなく座った。それから何かから逃れるかの如く喉の奥にアルコールを流し込んだ。
 男は何を話し出すでもなく、ただ酒を飲んだ。そうしていきなり慟哭したかと思えば、いきなり憤怒した様子で食卓を拳で叩いたりする。全く質の悪い酔っ払いである。
 男はそれから暫く酒を呷った後、急に立ち上がり、私に口付けをした。そうして私は男の両腕に抱き抱えられ、寝台に、連れて行かれる。
 男は獣の如く、激しく且つ律動的に、愛情の無い愛情を奥に伝えて来る。私は無駄に喘ぎ、無駄に男を愛す。何と言う無意味な時間であろう。そうして私に今、届いているのは、他でもない、急き立てる様な時計の針の音、これだけである。私は余りの切なさに、号泣の如き喘ぎ声を上げる。男はかくて、絶頂を見た。

 もう、部屋中は空っぽである。男は私に背を向けて、アルコールに塗れた夢を見ている。
 私は一人、寝台に寝転がったまま、煙草に火を着けた。そうして、口から吐き出す煙が、異常な程に私の胸を痛めるのは、何故だろう。もし心に胃があるとすれば、これは間違い無く、心の胃痛である。
 私は睡眠薬を、適当な数だけ飲んだ。そうして壁の一点に、愛情という文字を頭の中で書き始めた。痛む心を、癒すかの様に。

 そうして一瞬にして夜は枯れ、また朝がやって来た。私はそれに皮肉を込めた微笑をする。窓から差し込む日差しにも、やはり心の胃を、痛めながら。



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