劣等感

□夢見る少女の奇妙な実験
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 少女は翌日、公園へ行った。それはもう日課になっている。しかしこの日は、あの男に会わんとする為であった。少女の夢見がちなお洒落な腕時計、それはあわやという所で十七時になろうとしている。
「おや、君だね。また会うだろうと思っていたよ。」
 少女は振り返った。其処には夕焼けの空を背に、男が立っていた。男の顔は沈み行く太陽の逆光に因りて、にやりと笑んでいる口元しか見えぬ。それが、奇妙なこの男を更に奇妙に仕立て上げた。
「また、欲しくなったのかい。」
 少女は男から顔を背け、真正面を向いて言う。
「いいえ。文句を言いに来ましたの。」
「ほう。文句を。」
 男は少女の背後から、今度は長椅子に座っている彼女の隣にどっかと座った。
「どの様な文句だい。」
「貴方は羽の生えるお薬と申しましたが、あれは、何ですか、ただ幸福を与えるだけのものではありませんか。」
 男は決まりが悪そうに、唇を尖らせて、
「まあ、一円ですしね。」
 その後には気まずい時間が流れた。少女は消沈してこう言う。
「やはり空を飛ぶ事なんて、不可能なのよ。」
 男は更に更に奇妙な微笑を湛え、
「本当に、空を飛びたいのかい。」
 少女は男の横顔を見た。
「ええ。」
「二万円。」
「何ですって?」
「二万円を出してくれれば、今度こそ確実に空を飛ぶ事が出来る薬をあげる。」
 少女は無論、それを訝った。しかし、男のその言葉には、何処と言う事なく説得力がある。少女は、嗚呼、固唾を飲んで、財布から二万円を取り出した。男はその金をちらと見て、
「君は、財閥の娘かな。この若さでその大金を持っているのだから。」
 男は少女から二万円を盗む様にして懐にしまい、然る後、鞄から一つの紙を取り出した。
「直ぐにしまいなさい。目撃者が居たら大変な事になる。」
 少女はそれをしまう。
「これは、でも、どうやって摂取するのです。一見、ただの吸い取り紙に見えますが。」
「Lysergsaure Diathylamidさ。」
「えっ。」
「つまり、LSD-25の事。その紙には水溶液が染み込まれている。少しずつ切り取って舐める。極めて微少でも効果あり。じゃあ、また何れ、十七時から十八時の間に。因みに、今回は破格の値段だったけれど、次回からは今回の倍額を頂くよ。」
 男は去った。
 少女は暫し呆然とし、その後に空を見上げた。少女には一つの懸念がある。もしこの薬に依存して、廃人になってしまったら、という、絶望的な懸念が。
 鴉が舞っている。夕陽を浴びてとても美しかった。芸術的な飛行。芸術的な羽。芸術的な…生命。
 少女はすっくと立ち上がり、帰宅した。そうして帰宅するが早いか、鞄から先程の紙を取り出す。よく見ると、紙は切手大の大きさに二十五等分されていた。少女は、つまり二十五回分であると理解して、一つを鋏で切り取り出す。切り離されたそれを見て少女は、自身と世間とが此処で切り離されたと感じた。
 匂いを嗅いだ。無臭である。舌に乗せた。無味である。そうして幾許かの時間が経って、その効能は現れた。時計の針の音、それが、聞こえるのではなく見えるのである。音符になって目前を流れるという意味でなく、実際にその音が明確に見えた。部屋を見回す。床や壁や天井がよりその形質を主張した。天井はより天井らしく、壁はより壁らしく、床はより床らしく。机の角や洋箪笥の角は現実より鋭利になり、本の表紙を見詰めるだけで中身を読む事が出来る。しかもそうした物質を、聞く事さえ可能であった。
 音楽を掛けた。NAT KING COLEの「NATURE BOY」のそれが、またNICOLO PAGANINIの「Risoluto」が、CHET BAKERのトランペットの音色が、BILLIE HOLIDAYの歌声が、全て見える。そうして思考はやがて飛躍して、ビッグバン理論や相対性理論に至る。するとその仮説や定説を覆す事が出来る程の閃きが浮かび、それをしこたま書き記す。下書きをせずして起承転結、無駄の無い文章、芸術的な文章を書く事が出来た。何枚も何枚も原稿用紙に筆を走らせ、二万三千四百七十一頁もの論文を認めた。時計に目をやると既に(或いは未だ)翌日の午前八時。やがて効能は薄れ、夜が明ける様にして少女自身も共感覚から覚める。
「素敵だわ。うふふふ。」
 少女はそれからもその麻薬――いや、魔薬の摂取を続けた。


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