劣等感

□娼婦
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 彼はとても優しかった。枯れて行く花を見て涙を流し、害虫をも殺す事が出来ず、朝日を美しいと考え、夕日を悲しいと思い、月を崇め星を労っていた。その彼は、もう居ない。彼のそうした思想は、氷よりも冷たい現代の人々に嘲笑われ、彼の胸には幾重もの傷が付いた。然して、彼はどす黒い人に変わってしまう。美しいと言っていたものを醜いと言い、崇めていたものに唾を吐き掛け、労っていたものを土足で踏み躙る。あの頃の彼は居ない。嘗て日溜まりだった其処は、曇天の夜の様に陰惨とした。
 私はしかしそれでも、幸せだった。彼が其処に居るのなら、不幸そうな幸福の中に永遠に住まっていたいと思った。だから彼が、働く会社を馘首され、酒に溺れる様になって、借金が増えて行き、何度も自殺を図っても、互いに傷付きながら、凍る様な涙を流しながら、千切れてしまいそうな二人を繋ぐ紐を、嗚呼、そんな儚い紐を、大切に、慈しみながら、生きて来た。二人はまだ、やって行かれる。虫は人に踏まれても、生きようと足を動かす。

 私はその日、遂に最後の客に九千円で買われ、目標を達した。
 タクシーに乗り、彼の待つ部屋へ向かう。途中、電柱の陰に嘔吐物を見た。今度はそれが、「さようなら。」と言っている様に思われる。
 そう。だが確かにこの町とはお別れだ。私は目標を達成したのである。漸く貯め終えた数百万の金で、彼の借金を返し、そうして、その釣りでアルコールに依存している彼を病院へ連れて行き、酒を断たせ、もう一度、最初からやり直そう。
 古いアパートの前でタクシーは停まった。私は運転手に金を渡し、急いで部屋を開けた。彼は奥の部屋で酒を飲んでいるだろう。私は先ず寝室へ行き、和箪笥から貯めた金を取り出して、彼の居る居間の扉を開ける。
 彼を抱き締める筈だった。しかし其処に広がる光景を見て、私は愕然とするよりも更に愕然とした。瞬きすらする事が出来なかった。
 白い粉が床に散らばり、床に転がる注射器が部屋中を灰色にしていた。彼は部屋の片隅に膝を抱え、私を見るともなく見詰めている。して、彼の両目から大粒の涙が流れた。
 私は彼の頬を打った。彼は廃人の様な目をしている。もう一度頬を打つ。もう一度、もう一度、もう一度。しかし彼は死人の様な目から涙を流すばかりで、まだ其処に居る彼自身は、その心の外側を覆う悪魔の力に出て来られない。私はこの時程、彼を、白い粉を蔓延させる世間を、憎んだ事は無い。日溜まりを消し去った曇天は雹を降らした。もう、これ以上、彼とは居られない。愛するが故、離れねばならぬ事がある。どうしても別れられなかった。しかし、彼は人間をやめる事を決意してしまったのだ。私を認識する事の出来ない状態にまで陥ってしまうかも知れぬと考えなかったとは思われない。白い粉は、何も持たぬ人間からも更に何かを奪い取る。だから彼は私が傍に居ても、その魔法の薬に手を出す事が出来た。彼の苦悩は解る。私が借金の返済の為に娼婦になると言い出した時、彼は赤子の様に泣いて私を止めた。けれども返済が終わるまでという条件で渋々了解してくれるに至ったのだ。だから、苦悩は解る。痛い程に…。が、必死に娼婦になる事を止めてくれた彼は、自らを空白にする事を選んでしまった。私は、もう、此処には居られない。彼はもう、彼ではないのだから。
 私は流れ出しそうな涙を堪え、二人の為に貯めた全額を部屋に舞わした。その札の雨は、掻き乱された私の心情を実によく表していた。
 私は急いで部屋を出て、遮二無二走る。途中、通り掛かったタクシーを停め、乗り込んだ。
 運転手が尋ねる。
「どちらまで?」
 堪えていた涙が流れ出す。これまでの人生に於いて、初めて悲しみの涙を流した様な気がした。
「お客さん。どうしました。どちらまで行かれるのですか。」
 私は震える声で、
「日溜まりの中へ…。」
 そう言った。
 運転手は眉間に皺を寄せ、困惑した表情で私を見た。


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