劣等感

□無色透明
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 その後は長い療養期間を経た。けれど、僕の心は日が経つに連れてひび割れて行った。それでも、両親の死が僕を真っ当な道へ追いやろうとしているのか、その頃には、僕は粉の魔力から解放されていた。けれど、それは表面上だけの話だった。
 香織の家に身を置く様になってから何年かが過ぎ、僕は二十七歳になっていた。仕事をすると言う意欲は湧かずに、刻々と流れる時間をただ過ごしていた。
 香織が働きに出ている間、何とは無しにテレビを着けた。すると、僕の目には素晴らしい絵画が映し出された。新人の作家が話題になっていて、凄まじい程の絵画ブームを巻き起こしたらしい。
 僕の脳裏には、悪夢が蘇った。悪夢とは父母の事もそうだけれど、それよりも自分の全てを懸けて描いていた夢をへし折られた事で、もう有り得ない程の絶望を反復して、そして僕は、自然に白い粉の事を思い出していた。
 「一度だけ。この人生の中で後、一度だけ。僕はそれを前に経験して現にやめられたし、後、一度だけ。後、一度だけそれをやって、もう絵描きになる事は諦めるよ。」
 自分に言い訳をして、白い粉を探し歩いた。快感が欲しかったんじゃない。逃げ道が欲しかっただけなんだ。
 売人の様に見受けられる人達に片っ端から声を掛けて、白い粉はすぐに入手出来た。
 そして僕は、人生最後の白い粉を味わった。でも、翌日も翌々日もそれに溺れて、何日も経った頃に、自分は中毒者なのかも知れないと思ったけれど、嗚呼、この粉に喰われて死ねるなら本望だとさえ僕は思う様になり、黒の上に黒を塗る様にして再度、破滅に近付いた。
 僕の背徳的な行為に漸く気付いた鈍感な香織が、大泣きをしながら白い粉の摂取をやめる様に言った。でも、僕はやめなかったそのある日。
 「ねぇ、どうして?どうしてまた同じ事を繰り返すの?私の預金が全て無いの。それから、この借金の額は何?今も玄関の前に取り立て人がいるの!ねぇ、何か答えて!」
 僕は白い粉の魔力に取り付かれたまま、泣き叫ぶ香織の顔を見ていた。彼女の涙が、滝の様に流れて、「それは…水色なのか、…白色なのか…。それとも青色なのか…。」と繰り返す僕。
 そのうちに彼女は膝からがくりと倒れ込んで、両手を床に付けて「何もかも終りよ!」と叫び、終りは赤色、いや、黒色、または白色、赤色は終り?黒色は終り?白色は終り?白い粉は何色?破滅は何色?父は何色?母は何色?家は何色?
 気が付くと、彼女は窓を開けてベランダに出ていた。大空を背後にして、泣きながら笑っている。
 「愛しているのよ。」
 そう言って、彼女はベランダから飛び降りて、高層マンションの遥か彼方の地面にぐしゃりと音を立て、破裂して死んだ。飛び出した脳味噌が、限り無く海栗に似ていると思った。僕はそれを長い間、ベランダから見つめていた。
 愛は何色?ベランダは何色?高層マンションは何色?地面は何色?音は何色?破裂は何色?脳は何色?海栗は何色?空は何色?死は何色?
 やがて通行人が悲鳴を上げて、香織の無惨な死体の周りに人だかりが出来た。その中の一人の中年の男が僕を見上げて指を指した。
 人は何色?悲鳴は何色?死体は何色?指は何色?絵は何色?色は何色?彼女は何色?僕は何色?……

 でも、なるほど。
 破滅の色彩は、無色透明だ。……


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