劣等感

□青空の雨
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 と、そこで突然、彼女が泣き出した。大粒の涙が、両方の頬を伝い、カンバスの上に止め処なく落ちて行った。彼女の顔は、酷く歪んでしまった。まるでまっさらな紙を、くしゃくしゃにした様な表情になった。
 僕は、急に恐くなった。彼女のその泣き顔は、晴天を曇天に変えてしまう様な、そんな気がした。でも、僕は何もできない。そして気が付くと、僕の両目からも、涙が流れていた。原因が、でも、判らない。ただ、僕のその涙は、今までを生きた中でも最も意味の深い涙だと、何とはなしに理解できた。
 彼女が言う。「私って、何色なの…?」
 僕は、何も言わなかった。
 「今までたくさん、絵を書いて来たけれど、自分の色さえも判らない人間が、絵を描く資格なんて、あると思う?」
 彼女はそれから、わっと声をあげ、両手を顔に覆い、更に泣いた。僕は、彼女を抱きしめて落ち着かせてあげたかった。でも、それはできなかった。彼女と僕とが、これまで指一本触れ合わなかった関係だったからじゃない。僕には、彼女に触れる権利が、なかったからだった。僕は、自分でもそう思う程に、汚らわしい人間だった。
 彼女が泣いている。彼女の涙がカンバスに描かれる度に、僕は自分の無力さを実感する。
 空を見上げた。僕は、空に救いを求めた。でも、大きな空は、僕を小さな人間だと言う。無力な人間だと、こう言う。
 解っています。でも、彼女を救いたいんです。
 空は僕を嘲笑った。青空には似合わない、意地の悪い表情だった。「君は、無力だ。君は、無能なんだ。」
 青空だった空が、少しづつ陰りだした。僕にはそれが解る。僕も更に泣いた。声を、あげてしまった。彼女が僕を見る。僕は気付かれまいと目をつぶる。でも、彼女には気付かれただろう。
 「…どうしたの?」無垢な声だった。汚れのない、無垢な声だった。僕はその天使の様な声に、突き動かされた。
 すっと立ち上がり、彼女のカンバスを取り上げる。カンバスは、彼女の涙が綺麗に…いや、綺麗と一言では言えないくらい綺麗に、咲き誇っていた。
 「ごらん。こんなに、君は、綺麗だ。何色かなんて、そんな事はどうだっていいよ。これが何色かなんて、どうだっていいよ。僕には、これが綺麗だとしか思えない。君は、天使なんだよ。」僕は更に泣いた。涙が、止まらなかった。
 曇天は雨を降らした。でも、それは僕にしかわからないことだ。彼女はまた涙を零す。その涙が、花になるのを見た。これも、僕にしかわからないことだろう。
 「何故、抱きしめてくれないの…。」彼女から初めて聞く、不安定な声だった。
 僕は何時も通りの事を言う。「君には、触っちゃいけないんだ。」
 「どうしてよ…。」
 「空が、許してくれないから。」
 「…馬鹿。」
 僕は、とても辛かった。でも、仕方なかった。
 「あなたみたいな色が、良かったなあ…。」
 彼女は、震える声で、最後にそう言った。僕は、これ程までに悲しい言葉はないと思う。
 僕の両目から、涙が、滝の様に、流れていた。
 「また明日、ここで会おう。」
 僕は、彼女に背を向け、小走りに、その場から逃げ出した。背中に、痛い程彼女の視線を感じながら。

 翌日、彼女はその河原には来なかった。その翌日も、彼女は来なかった。次の日も、その次の日も、彼女は現れなかった。一ヶ月後も、二ヶ月後も、半年後も一年後も、彼女は現れなかった。
 彼女は、死にました。
 あの最後に会った翌日に、倒れて入院していたと、彼女の父母が教えてくれました。彼女は、一年も頑張ったのに、ついに、息絶えたのでした。僕は、あの日の二人の涙のわけを、瞬時に理解しました。
 通夜に行き、彼女の顔を最後に、見つめました。
 死人とは思えないほどの、とても綺麗な、死に顔でした。
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