劣等感

□精神的殺害
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 やがて彼女は、僕の手が届くくらいの所で歩を止め、それから僕を見上げた。その僕を見る目は余りにも媚びへつらっている。
 無言の時間が過ぎた。彼女が瞬きをする度に、僕は発狂しそうになる。
 先程吹き付けた風がやんだ。真上の曇天もこの屋上を取り囲む柵も、その他全てが無機質に枯れた。僕と彼女を除いては、全てが枯れてしまった。
 さようなら。不意にこの言葉が浮かんだ。そして僕は彼女の首に手を掛け、愛撫する様にその首筋を撫で回す。この行動は、しかし僕が取っているのではない。両腕が勝手にそうしているだけなのである。
 長い間指で彼女の首を舐め回した。彼女の表情は次第に艶かしいものへと変わっていく。それから僕はその両手に、今度は本意でぎゅっと力を込めた。そう、本意で。
 とても奇妙だった。僕には見えた。彼女の体内をぐるぐると行き来する黒色の様な紅い血液が、次第に速度を落とすのを、僕は間違いなく見たのである。彼女の顔面はたちまち真っ赤に腫れ上がり、彼女らしくない醜態を曝した。彼女らしくない?いや、一見そう見えるこれも、実は彼女の本質であろう。
 彼女の首を偏屈に愛する強い力に、彼女は狼狽した。しかし、狼狽したがすぐに目を閉じた。まるで、「貴方になら殺されても良いのよ。」と言わんばかりの態度である。しかしそれが彼女の虚栄心だという事を僕は知っている。僕は尚も自らの両手に力を込める。
 曇天の向こう側に隠れた太陽は傾き出し、そして沈もうとする。辺りは少しづつ灰色から黒色へ進化を遂げようとし、彼女の顔もまた、赤色から更に気色の悪い色へと変貌しようとする。彼女の眉間に皺が寄る。僕の腕を掴み、次第にその力が増す。彼女は両目を大きく見開き、何かを伝えようとする。しかし僕の腕は止まらない。この両腕は精神的に僕から切り離され、今では一個の生物と化してしまっていた。不思議な感覚である。それはまるで、両腕にさえ生命があり、意思があるかの様であった。そしてこの一個の生命は宿命を果たそうと、更に更に力を入れていくのである。僕はただその光景を見つめている。
 やがて彼女は失禁した。両目から涙も流れた。しかしやはり僕の、…いや、誰のものでもなくなった両腕は止まらない。彼女の首に深く食い込み、もはや決して離れぬ風である。
 -とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの細道じゃ-
 彼女の両目は焦点が合わなくなり、よろよろと虚空を彷徨った。
 -とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの細道じゃ-
 誰のものでもなくなった両腕はやがて宿命を果たし、死んだ。そして死んだかと思うと、それはまた僕の元へ実感として返って来た。これ程までに力を込めていたのかと思うと、僕は俄かに恐ろしくなった。
 -とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの細道じゃ-
 僕は彼女の首から両手を離した。離すや否や、彼女は膝からがくりと崩れ落ち、冷たいコンクリートの上をひたすらのたうちまわった。
 -とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの細道じゃ-
 彼女は嘔吐する様な汚らしいうめき声を上げる。其処にはもう虚栄心も美も、何も無くなっていた。
 -とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの細道じゃ-
 僕はくるりと反転し、少し前に寄り掛かっていた扉を開けた。其処には下りの階段だけしかない。成る程、彼女の人生観と酷似している。道は一つしか無いのである。僕は彼女を置き去りにし、その階段を下りた。
 -行きはよいよい 帰りはこわい-
 その後、彼女がどうなったかは皆目判らない。ただ彼女は生きているだろう。しかし、僕は間違いなく彼女を殺害していた。そう、精神的には間違いなく、殺害していた。



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