劣等感

□憂愁
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 私はふと気になり始め、料亭の至る所に飾ってある時計に目をやった。時刻は十五時を少し過ぎた辺りを示していた。そして彼女は時計に目をやった私のこの行動を見て、急に焦り出した。
 「いけない。もうこの様な時間なのね。」
 私は思わず噴き出してしまった。
 「在り来りな台詞を言うのはお止しなさい。いや、もし君に用事があったのなら、申し訳無いですがね、僕は全く構いませんよ。それにしても、酒は美味だ。恐らく酒は、僕の為に製造されている。」
 彼女はげらげらと大笑いした。
 「貴方って、お酒を飲むと面白いわね。私も今日はどうせ一人でワインでも飲みながら寂しく過ごそうと思っていたから、楽しませて頂いているわ。」
 彼女は強い目をしていた。そしてその目の奥には真摯さや又悲哀の様なものがあるのを私に感じさせていた。私は急に寂しくなった。酒の所為ではなかった。それは彼女が齎したものであった。
 「このまま、大いに飲もう。偶然は必然でもある。今日僕達がばったり出会ったのも、何かの必然でしょう。」
 「あら、小説は書かなくて良いの?」
 「明日に徹夜でもすれば良い。」
 私達はこうしてクリスマスという聖なる夜を一緒に過ごす事にした。その料亭を出て、酒屋で酒を大量に買い込み、彼女の自宅へ向かった。彼女は或る意味では私に対して開放的であった。そして私もそれに甘んじてみる。
 冷たい風が頬を撫でた。少しだけの酔いが一気に覚める。空は灰色から黒色に変化を遂げようとしていた。まるで私の心みたいに。
 彼女の部屋は騒然としていた。しかし汚らしいという意味ではない。只妙な骨董品が数多く部屋を埋め尽くしていたからである。
 私は服を適当に丸め、寝台の枕元に放った。それから長椅子に腰を掛け、彼女が酒のつまみの用意を終えるのを待ち、漸く酒を呷り始めた。
 「改めて、メリークリスマス。」
 彼女は相変わらず明るい声を出す。私は彼女に気付かれない様に彼女の心情を観察していた。成る程、彼女は少し酔っている。しかし理性はきちんと保っている。
 その内に酒は次から次へと空き瓶と化し、彼女も私も文字通りの酔っ払いになっていた。
 楽しかった。久し振りに本質的な笑顔を交わした様な感覚であった。しかし、無意識下では色情と愛情に近い何かを互いに通信し合っていた。
 私は少しだけ怠くなり、寝台へと身体を移した。彼女も私の隣に腰を下ろし、それから只無言の会話が始まった。彼女は真っ正面を見据え、何かを考え出した。雰囲気から察するに、何か楽しい事を考えていたのであろう。私は俯き、意地悪な心持ちから詰まらなそうな雰囲気を出した。しかし彼女と一緒に居り、楽しさを感じていた心情を殺すのは容易な事ではない。私の意地悪は早くも失敗に終った。
 「今夜は、しかし、飲み過ぎた。此処に泊まっても良いかしら。」
 私は自然にそう言った。
 「どうぞ。でもまさかこの寝台で?」
 「ええ。何がある訳でもありません。抵抗が?」
 「さあ。まあ、良い心持ちの内に寝てしまいましょうか。貴方は、先程憂鬱だと仰っていましたから。」
 私は無言で寝台に横になり、彼女も私の横に寝転んだ。私は布団を掛け、目をつむった。会話は無い。しかし私達は呼吸だけで会話をしていた。そして私は彼女を抱きたいと思った。詰まり性欲が湧いたのである。しかし、性欲だけかと言えばそうでもない。愛情?それも適切ではない。形容出来ない何かが私をそう感じさせていた。胸の上に乗せていた左手を下ろした。彼女の右腕に触れる。これは間違いなく偶然である。しかし、偶然は必然という事でもあるのだ。私は更に彼女を抱きたくなる。彼女の右腕が私に抱いてと言っている様にさえ感じる。私は彼女を欲している。異常なまでに欲している。しかし抱く訳にはいかない。けれどもう抑え切れない。
 「…君を抱いても良いかね。」
 私には珍しい事であった。私は自分からこの様な言葉を発した事が無い。俄かに自尊心は傷付けられていた。
 「良いわよ。」
 私の予想した通りの返答であった。しかし私は彼女を抱く訳にはいかない。自尊心だけの問題ではない。私の中の規則であった。この規則を犯す訳にはいかない。それは私自身の為に。そして彼女の為に。
 「いや、よそう。君は傷付く事になる。」
 欲している心情を押し殺すしか無かった。抑圧するしか無かった。
 「大丈夫よ。」
 ………!
 この彼女の言葉は私をあらゆる呪縛から開放させた。まるで繋がれていた鎖が何かの弾みで切断され、嬉しさの余り走り回る家畜の様に、素早く彼女の服を剥ぎ取り、私は愛撫を始めた。
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