劣等感
□憂愁
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事は直ぐに終った。いや、実際は途方に暮れる程に長かった。しかし、事が終了した際にはそれまでの全てが一瞬であった様に私には感じられた。
彼女を抱いた事に罪悪感は無かった。彼女を気の毒にさえ思わなかった。只その夜は何かを感じ出す前に眠る事にした。
「お休みなさい。」
心の中で私は彼女に言った。その言葉は奇妙な程に、色々な意味で彼女を労っていた気がした。
翌朝、私は嫌な感覚に襲われずに朝を迎えた。私の横には彼女がすやすやと眠っている。私は暫くそのまま寝台の上を離れず、寝転がったまま煙草を何本も吸っていた。朝は早々に脱皮をし、昼に成長を遂げた。そしてその昼でさえも、夜という不思議なものに姿を変えた。一体、何時になれば一昼夜の繰り返しは終るのであろう。
私達はその日も一緒に過ごしていた。夜行性の動物の様に、帳の降りた往来を歩いていった。
この日も外は冷え冷えとしていた。しかし私は冷え切っていなかったし、又憂鬱さも何処かへ消えてしまった。それが俄かに喜ばしい。そして私は彼女と遅過ぎる朝食を取る事にし、或る居酒屋へ入った。適当な料理と酒を注文し、彼女と談笑した。在り来りで平凡な会話であった。
しかし、その時であった。私は急に奇妙な感覚に襲われた。奇妙な感覚。私は幻覚を見たのである。彼女と平和な家庭を持つ幻覚であった。その幻覚では彼女と私とが、とても幸せそうに笑い合っていた。私はその幻覚を見て、目に涙を浮かべてしまった。その涙は、悲哀に依る涙ではなかった。幸福が故に流す様な、春に流れる小川の如き綺麗な涙であった。途轍もない幸福を感じた。しかし、私はそれに傷付いていた。私は幸福になる気が無い。寧ろ幸福になる事から今まで逃げて来た。その為に全てを壊して来たのである。その様な私が幸福な幻覚を見て、涙しているのだ。傷付くのは当然である。物凄まじい傷であった。彼女は笑っている。しかし、私達はもう会う事は出来ない。さようなら。
私は酒と料理を中途半端に食べ散らかしたまま彼女を連れ、急いでその店を出た。逃避という事は大方理解していた。そして私は更に追い打ちを掛けられるのである。
往来に吹く風の香りが、余りにも悲し過ぎたのである。そしてその風の悲しみに含まれた意味合いは瞬時に判然した。その風の香りは予言の様なものであった。晩年である。紛れも無い、私自身の晩年である。成る程、私はもう長くない。しかし、死ぬにしても、余りにも私の周りにある物が中途半端である。
さようなら。しかし、中途半端は私らしさであろう。いかにも皮肉である。
この中途半端な終幕に、殊に心残りに思う事が一つだけある。彼女を抱いた事?違う。その行為自体を恥じてはいない。しかし、私の中の規則を破った事は恥じてしかるべきであろう。
さようなら。晩年の香りは未だに止まない。ただただ憂鬱なばかりである。