劣等感

□痴話喧嘩
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 外は冷え切っていた。
 風に吹かれた木々がざわざわと音を立てた。
 真っ黒い夜である。田舎道は時として安らぎをくれるけれども、それは陽の照っている時だけかも知れぬ。見よ、この、前方の何も見えぬ、悍ましき暗闇を。
 私達は近くにある、遅くまで営業している小さい店で煙草を購入した。店の明かりが暗闇を少し明色に変えていた事に、私は安堵した。そうして、暗闇に恐怖していた私は、平静を装っている事の出来る様に、直ぐに新しい煙草に火を着けた。
 其処へ漸く、彼女が話し出した。彼女は、自身の心に付いたその傷を、開いて私の目前まで持って来るかの如く弱音を吐く。然して、彼女の本当の心情を、私は間違い無く耳にしたのである。それは、「私とは別れて、他に綺麗な人を見付けて下さい。」という、無声の声であった。
 彼女は実際、何度かそうした発言を私にした事があった。彼女は、自身に劣等感を抱いている。だからこれまでに、彼女はそうした発言を幾度と無く私にしたものである。私はしかし、その言葉に何時も傷付いて、その都度憤激したものであったが、無声のその言葉より辛いものは、今日までに一度も、無かった。
 私は、彼女を救う事の出来ぬ自分の無力さにほとほと呆れ果て、どうにもやり場が無く、吸っていた煙草を路肩に勢いよく投げ捨てて、
「僕が良いと言っているのですから、良いでしょう!」
 その言葉の意味は、例えば誰かが二人の仲を引き裂こうとしても、当人同士が動じなければそれで良かろう、暗闇を見る事勿れ、という様な意味合いのものであった。
 しかし状況は悪化した。
 私は煙草を買いに来るまでに酒を飲んでいた。彼女は、私が酔っ払ってこの様な行動を取ったと考えたらしかったのである。彼女はふわりと身体を一回転させ、反対方向へ歩き出した(喧嘩になると何時もこうである)。対象的に私はそのまま彼女の祖母宅へ寄り、皆が寝静まったのを確認した後に私服に着替え、海の方へ向かった。死のうと思ったのである。
 私がどれ程辛い想いをして歌う歌も、私がどれ程泣きながら書く小説も、人一人をさえ救う事が出来ぬ。その無力さや無能さが、ただ苦しくて、ただ悲しくて、そうして、死ぬという決断しか、私の中の選択肢には無かったのである。
 真っ暗闇。
 私の心は真っ暗闇であった。そうして海へ向かう田舎道も、やはり真っ暗闇であった。私は苦笑しながら、長い道程を行く。携帯電話の電源は消して、ひんやりする道をただ歩いたのである。
 小さい道の両側に生きる沢山の木々が、風に吹かれて、さーっと音を立てる。後ろからからからと音を立てて私を追い掛けて来る干からびた落ち葉。消え掛かった街灯。…
 暫く歩き続け、やがて向こうから、けたたましい波の音が聞こえた。そうして、行く手を阻むかの如き大風。辿り着いたのは、美も何も無い、荒れ果てた砂浜である。
 黒色である。全ては、黒色であった。黒色の波が高く跳ね上がり、黒色の砂が大風に吹かれてぱらぱらと舞う。そうして波の更に奥は、例えばこの世の者ではない者達が次々と現れて来る様な、不吉な風景。私は、固唾を、飲んでいた。
 立ち尽くしていた。私は其処に、長い間立ち尽くしていた。まるで砂浜に深く突き刺さった棒みたいに、立ち尽くしていた。
 と、其処へ更に更に強い大風が向こうから吹いて来て、誇張ではなく本当に、私は身を後ろへ押されたのである。
 …死ぬなという事であろうか。
 私は、右足を前に出した。更に左足をその前に出す。
 嗚呼、駄目だ。風が強過ぎて、とても歩く事が出来ぬ。それでも、無理に足を前へ進める。
 風は決してやまなかった。
 私は、海を目前にして、何時しか冷静になった。此処で私が死ぬのは、我が恋人の祖母としても嫌な気持ちがするであろう。そう判断し、泣く泣く彼女の祖母宅へ引き返すしか無かった。
 嗚呼、また自殺を遂行出来なかった。けれども、踵を返し、もう、振り返るまい。少なくとも、今はまだ。


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