劣等感

□病巣
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 彼の妹は妊娠した。それは無論、兄である彼との間にである。妹は兄以外の誰にも身体を許さなかった。誰に声を掛けられても、愛する兄の魅力には敵わなかった。
 妹は身篭った子供を産むつもりでいた。
 この時点ではまだ父母はその事実を知らぬ。彼女は兄にだけそれを話す。
 兄は深く考えた。しかしその子供はきっと、世に生きにくいと考え、妹に堕胎を勧めた。
「どの様な生物も、産まれて罪な事なんてありませんわ。」
 そう言って、兄のそれを拒み、
「逃げませんか。此処から逃げて、何処か遠い所で、この子を含め三人で暮らしませんか。きっと、幸せになると思います。」
 兄はまた深く考えた。沢山の事を考えた。けれども、子供の出産も妹と一緒に暮らす事も、彼は賛成する事が出来なかった。
 それを言い渡された時、妹は愕然とした。崖から突き落とされた様な感覚にさえ陥った。それでも兄を愛している。その子供をさえ愛している。彼女は一人だけで生きて行く事を決めた。
 が、やがて父母が彼女の妊娠に気が付いた。そうして問い詰めた。妹は決して真実を言わなかったが、十七の娘に子供を産ませる事を何処か不憫に感じ、それよりも近所の住人の目を気にした彼等は体裁の為に子を殺す事を考えた。
 彼女は孤独を感じた。それでも今後、我が子との幸福な生活を送る事が出来ればと、その孤独をしかしやっとの思いで払拭した。彼女は家を出る。
 悲劇は起きた。
 権力者でもあったその父は、懸賞金を掛けてまで様々の人間に彼女を探させた。十七歳の、まだ子供である。金も余り無い彼女は、そう遠くへ行かれた訳でない。彼女は直ぐに見付け出された。そうして、彼女の父は彼女を見付けた者に或る事を命ずる。彼女の部屋に入り込み、寝ている間に、いや、そうでなくても、多少強引にでも連れて来い、と。
 命ぜられた者は睡眠薬を用いた。珈琲の訪問販売の者を装い、彼女に勧めた一杯、其処に睡眠薬を入れたのである。
 訪問販売員を装った彼を招き入れた彼女は呆気なくその策略に嵌まり、実家へ戻された。そうして、まだ眠っている可憐な、一途なその母に対し、闇の医者に高額を支払い堕胎の手術をさせた。眠らせたままの堕胎。それは父が或る小説にて読んだものを応用したのであった。
 彼女が目を覚ました時、全ては終わっていた。彼女は孤独の闇の中へ葬られる。気が狂いそうになる程に、生きる能力を奪われた。
 涙も出ぬ。溜め息さえも出ぬ。彼女は廃人の如く一切の食事を絶った。父母とは口も利かぬ。しかしそれでも、兄の言葉には微々たる反応を示したが、とは言え所詮は生きる屍。彼女は失われた子と、深く愛した兄とをその胸の中に強く浮かべ、間も無く崖から飛び降りた。そうして飛び降りたその時、かつて感じた孤独をその脳裏に、それは米粒よりも小さきものであったが、思い出す。
 一週間後、彼女の死体は発見せられる。変わり果てた、余りにも無惨な姿に成りて。
 彼女の兄はその死体を見、止め処無い悲哀を感じた。妹の骸は焼かれ灰になった。ただの灰。それまで生きていたものとは思われぬ灰。頼りない灰。そうして、悲しい灰。
 彼は妹との関係を罪に感じたが、しかしその罪悪感は、流れる時と共に忘れ去る。

 彼が二十歳になった頃、この者に恋人が出来る。言うまでも無くそれまでにも恋人が何十と無く出来たものであるが、何れも長くは続かずに終わっていた。しかし彼は、この時、産まれて初めて一生をその恋人と過ごしたいと思った程、相手を愛してしまう。
 その恋人は可憐であった。人間達に踏まれる雑草にさえ微笑みを寄せる、然様な、感性の豊かな者であった。
 しかしそれは不幸であった。結末に訪れるあの事を考えれば、成る程、嗚呼、不幸であった。


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