novel

□まごころ荘の事情
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先日、祖父が死んだ。

何の前触れもない、唐突な死だった。

毎朝ラジオ体操を欠かさない元気な人で、親戚一同、あと百年は生きるだろうと言っていた。

無論この僕もそう思っていた。

祖母の日課は、祖父がラジオ体操をしている間に朝食を用意するところから始まった。

だがその日、祖父はなかなか庭から戻らなかった。

さてどうしたことかと見に行くと、彼は腰に手をやり、左に大きく伸びをする格好でうつ伏せに倒れて事切れていたのだという。

「あの人らしい最期だったねえ」

葬式の席で、祖母はしみじみと呟いた。

僕はその隣で静かに頷いた。

たくさんのチューブに繋がれて痩せ細り死んでいく祖父など想像ができなかったし、そう考えると、多少間抜けな格好でもある日ぱったりという方が、確かに祖父らしかったと思うのだ。

棺桶の小窓から見た祖父は、顔から地面に倒れたせいで前歯が欠けていた。

僕はベッドに仰向けに寝転がったまま、床に転がるリュックから手探りで財布を抜き出した。

レジでいちいち引っ張り出すのが面倒なので、ポイントカードは断る主義だ。

そのためカード入れには保険証と銀行のカード、それに幼い頃祖父に貰った名刺の三枚しかない。

天才発明家。

それが祖父の職業だった。

ご丁寧に、天才という文字の横に赤ペンで二重線が引いてある。

僕はしばし若かりし頃の祖父の顔を眺め、色褪せた名刺を再び財布にしまった。

そうして次にリュックから取り出したのは、しわくちゃの茶封筒だった。

おじいちゃんの遺言をよくも、と目くじらを立てる祖母が目に浮かぶようだ。

僕は中の用紙に目を通し、改めて深い溜め息をついた。

何が厄介かといえば、祖父が本当に天才だったことだ。

医療器具に関する特許を複数所有しており、年商は軽く億を超えていた。

祖父本人から直接聞いてはいたものの、僕は信じていなかった。

なぜなら祖父母の家は質素な平屋建てで、夕食にフォアグラのソテーなんてこともなければ、家政婦を雇っているわけでもなかったからだ。

当然、その莫大な財産はどうしていたのかという疑問が生じる。

しかしこれに関してだけは、祖母を除いた親戚の誰も知らなかったのである。

それが今回の遺言で初めて明らかになった。



都内に建てたすべての不動産物件の所有権を、水無月王子へ委譲する。



財産分割には間違いなくそう書かれていた。

ちなみに王子というのは僕の名前であって、敬称ではない。

ここは民主国家日本で、僕はどこにでもいるごくごく普通の大学生だ。

この恥ずかしい名前は、祖父が両親の反対を押し切って強引に区役所に提出してしまったものだ。

今となっては文句も言えない。

本当に、最初から最期まで破天荒な人だった。

部屋のドアを叩く音がして、僕はこめかみを押さえたままどうぞと答えた。

ベルトの上に乗った腹を揺らしながら、父が部屋に入ってきた。

夕食まで待てばいいのに、自宅を事務所と兼用している父は、暇さえ見つけては僕の部屋に遊びに来るのだ。

「今日が期限だぞ。どうするか決めたのか?」

父がベッドに腰掛けると、スプリングが悲鳴を上げた。

「どうするもこうするもないよ。学生の本分は勉学だしね」

「言うと思った。こんな時だけ優等生づらしやがって」

父は鼻で笑い、ネクタイを緩めた。

一見すると首のない父がどうやってネクタイを巻いているのか、というのは僕が小学生の頃からの疑問である。

「本当はただ管理が面倒ってだけだろうが。もしおまえにその気がないなら、建物の所有権は父さんが譲り受けるが、異論はないか?」

「同意します」

「あっさりしてんな、ほんと」

父は呆れたように笑って、僕の手からしわくちゃの遺言状を抜き取った。

「昔はたかだか二、三千円のお年玉取り上げられてびーびー泣いてたくせに」

「お年玉に手続きはいらないからね」

「はん、おまえらしい理由だな」

預かっておくからと取り上げられたお年玉が二度と戻ってはこないであろうことも、幼心に薄々分かっていた気がする。

父が遺言状をファイルにしまうのを、僕はぼんやりと眺めていた。

「あ、ちょっと待った。一つだけ気になる物件があったの忘れてた」

「気になる物件?」

ファイルを閉じる手を止め、父が振り返った。

「僕が通ってる大学の近くに、四部屋だけの小さなアパートがあったよね?」

「あるな」

「そこ、今は誰も住んでないみたいなんだ。僕自身の住居として登記し直すことってできる?」

僕の問いにすぐには答えず、父はしまいかけたファイルから祖父が遺した物件のリストを取り出した。

そうして険しい顔でリストを眺めたのち、一つ舌打ちをして、余計な仕事を増やしやがってと呟いた。

「なあ、王子」

「何?」

僕を見下ろす父の目が真剣だったので、僕は思わず体を起こして居住まいを正した。
「この家は居心地が悪いのか?」

「いや、そういうわけじゃない」

「そうか。ならいい」

にやっと笑って、父は部屋を出ていった。それが三月のことだ。

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