刻まれた証

□05.変調
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そろそろ動き出す頃だろう

どんな手を使ってこようが構わないが、やるからにはお互い覚悟を決めようか


5.変調


 決して軍人としての仕事を忘れたわけではない。だが、生きることに必死になっていて味わうことの出来なかった学生生活、失った青春、そんな自分には縁の無かった経験を取り戻すかのように、悠輝は密かにこの氷帝での毎日を楽しんでいた。
 しかし、いつまでも遊んでいることは許されないようだ。

「疲れるな……」

 装い、言動共にできるだけ地味で目立たないよう気を配って来た悠輝は、転入当初より多くの生徒に冷めた目で見られている。本人からしてみれば予定通りなのだが、それでもわざわざ話し掛けてくれる人がいい生徒も僅かながら居た。しかし、そんな数少ない生徒達も周りの雰囲気に圧迫され次第に遠退いていき、今となっては完全な孤立を余儀なくされている。

 あくまで潜入捜査と言う名目で入学したのだからそれは一向に構わない。厄介なのは悠輝に対して行われる数多の嫌がらせだった。生徒達は冴えない男が色々な意味で存在感のある男子テニス部のマネージャーになったことが気に入らないらしい。果ては他クラスの生徒にまで陰口を言われているのだから居辛さを感じざるを得ない。

「子供はその純粋さ故に人を傷付けるんだな」

 一人になってそう呟く悠輝はいつもより覇気がない。大人の汚い部分は嫌と言う程見てきたし対処方法も熟知している。だが、自分より若年者のそれには耐性がなく、どう言う対応をしていいのか分かりかねて悩んでいる。基本的に年下に甘い部分のある悠輝は生徒達を無下にもできず、調子を狂わされていた。

 それでも今の所大した被害もなく過ごせているのは、テニス部のレギュラーが比較的悠輝に友好的な為だろう。最早周知の事実であるが、部員数の多さや実績、そして何より生徒会長である跡部が部長を務めている男子テニス部の存在はかなり大きい。下手に手が出せないと周囲に思わせるだけの力がある。

 とは言え、それも現状ではと言う注意書きが必要な状態だ。逆に言えば、テニス部レギュラーの信頼を失えば簡単に落ちるところまで落ちてしまうかもしれない。そしてこの先状況がどう変わるかは悠輝自身が一番よく知っていた。

「悠輝先輩、ドリンクできましたか?」

 眉間に皺を寄せて考え込んでいた悠輝だったが、冴島がやって来たことに気付くとすぐさま表情を柔和なものに切り替えた。表情と内面の大きすぎる温度差は悠輝の笑顔を多少引き攣らせていたが、周囲に気付かれる程ではなかった。

「ええ、そこに置いてありますよ」
「じゃあ皆さんに配ってきますね。悠輝先輩は休んでいて下さい」

 人好きのする笑顔で率先して仕事を遂行する冴島は一見真面目な後輩に見える。しかし、悠輝は自分の返事など待たずに部室を出て行った冴島に溜息を一つ吐いた。少し前までマネージャーが彼女一人だったことを考慮すれば、あらゆる仕事を一人で熟していたことは間違いないだろう。実際、聞いたところによれば真面目に仕事に取り組んでいる優秀なマネージャーらしい。

 しかし、悠輝が入部してからは次第に仕事を選ぶようになり、主にレギュラーの目に仕事をしているという印象を与える行動のみを取るようになっていった。よく言えば要領が良い、悪く言えば狡賢いということだ。

「どう考えても休んでる暇なんてないだろ。マネージャーってのも案外疲れるんだな……」

 そう呟いた悠輝は冴島の後に続いてコートの方へ向かった。コートでの自分の役回りはほぼ固定されつつある。男である悠輝は必然的に大量のボールが入った籠を運ぶなどの力仕事を担うようになっていた。決して女子生徒に持てない重さのものではないのだが、コートの雰囲気が悠輝の仕事だと言っている。今日も部員に扱き使われることを覚悟して重い足取りでコートへ向かった。

「あ、桐生! こっちにも一個!」

 呼ばれる度に籠が減っていく。そもそもこれは使う本人である選手達が自らやるべき仕事なのではないかと疑問に思いつつも、悲しいかな鍛錬のためではない競技としてのスポーツ経験がほとんどない悠輝にはどこまでが常識なのか分かりかねていた。
 コートを何度も行き来してやっと籠が後一つになった時、休憩中のレギュラー陣の声がふいに悠輝の耳に入った。

「なんか最近ドリンクが上手くて飲みやすいよな」
「せやなぁ。メーカー変えたんやろか?」

 美味くて当たり前だ、わざわざ俺が市販の物に手を加えているのだから。口から出かかったそんな思いを悠輝は飲み込んだ。美味いと言われれば悪い気はしないが、生憎相手は友人でもなければ仕事仲間でもない。素直に喜べるほど、ここの生徒達には愛着を持っていなかった。

「これは優里亜が作ったのか?」

 他のレギュラーの会話を聞いているだけだった跡部が、ふと近くを歩いていた冴島を呼び止めた。彼女は何も分からないような顔で近寄って行ったが、距離から言っても今までの話は聞こえていたに違いない。

「はい、少し手を加えてみたんです。……どうですか?」
「あぁ、こっちの方が良いな」

 悠輝はこの程度のことで腹を立てるような人間ではなかったが、あろうことか自分が見ていると知りながらもレギュラーに取り入る冴島の姿は憎たらしく見えた。次回からは飲めないような不味いものを作ってやろうかなどと白けた目で冴島達を眺めていると、まだ練習中の部員達から再びお呼びが掛かった。

「マネージャー! 何ぼーっとしてんだよ! こっちにも早くボール持って来い!」
「あぁ……はい、今行きます」

 そのまま叫び声に引き寄せられるように残り一つの籠を渡すために歩いていく。一度他の事に気を取られてしまえば、冴島に対する小さな怒りも消えてしまった。今更この程度のことで彼女に対する感情に変化などない。



「少しは休憩しないとな」

 ボール籠が全てなくなった所で一旦コートを出て休むことにした。セントラルは1年中過ごしやすい気候だったが、日本は初夏でも思ったより陽射しが強い。一度水分補給をしようと近くにあったベンチに座って水を飲んでいると、見計らったように冴島が悠輝に近付いてきた。

「悠輝先輩、少しお聞きしたいんですが、さっきのドリンクはどうやって作ったんですか?」
「ああ、あれはスポーツ飲料の他にも違う材料を混ぜているんですよ」

 なんてことはない。たとえ仲良くするつもりのない相手であろうとも、たまには毎日飲んでいるドリンクと別の味を飲ませてやろうというちょっとした悠輝の気まぐれからの心遣いだった。
 味だけではなく、塩分や糖分、ミネラル等の必要な含有物は確保しつつ、飲みやすいようにドリンク中の各原材料の量を錬成で調整し、仕上げに果汁を加えたものだ。軍人である悠輝は身体が疲労した時に必要な成分くらい嫌と言う程理解しているため、部員が飲んだのは市販品以上の栄養価を確保した特性ドリンクであった。

「えー? 教えて下さいよ、先輩! お願いします!」

 錬金術を使えない者には教えても仕方がないのだが、そうとは知らず上目遣いで人好きしそうな笑顔を向けて聞き出そうとしてくる冴島。常人なら何かしら思う所のあるだろうその笑顔にも悠輝は全く動じず、その場を逸早く立ち去るための心算をしていた。

「まあそれは企業秘密ということで。それより作る量を間違えてしまったようで、足りなくなってしまったんです。申し訳ないんですが代わりに作っていただけませんか?」
「作るのは良いんですけど、やっぱり悠輝先輩が作る方が美味しいですし……」

 冴島はやや驚いた表情でやんわりと拒否した。その目には多少の困惑と抗議の色が浮かんでいる。しかし、悠輝も引くことはせずに、買い出しに行かなければならないという尤もらしい理由を付け加えて立ち上がった。実際に買わなければならない消耗品があったので嘘ではない。

「だったら私が買い出しに行きますよ」
「荷物が多くて大変ですから、男の僕が行きますよ。それではドリンクの方はお願いしますね」
「あ、ちょっと先輩……」

 聞こえない振りをしてその場を立ち去って行く。選手用のドリンクをわざといつもより少なめに作っておいたのは僅かばかりの嫌がらせのつもりだった。自分で作ってレギュラーに嘘を吐いたのを謝るか、悠輝に不利な言葉でまたレギュラーを騙すか。答えを分かっていても試してしまう自分は馬鹿だと笑いながら、悠輝は忌々しいテニスコートの雰囲気から足早に抜け出して行った。

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