「え!? そのホテルに泊まるの!?」 菜月が素っ頓狂な声を上げた。それを訝しげに見る夫のブン太。彼は学生時代に力を入れていたテニスも辞め、今では商社のサラリーマンである。 「何だよ、いけねぇの?」 「……そこのホテルってね、……出るんだって」 「は?」 「だからぁ! 幽霊が出るんだって!」 本人は隠しているつもりだが、その手の話に滅法弱いブン太。菜月の話を聞いて一瞬焦ったが、何とか平静を装って言葉を返した。 「ゆ、幽霊なんている訳ないだろぃ? 大体会社が決めた事だからしょうがねぇじゃん……」 「……まぁそうよね。それに、噂では出るのはある一室だけらしいから、まず大丈夫だと思うわ。でも一応気をつけてね。ところで、この間……」 心配はしてくれているらしいが、意外にもあっさり話題を変えてしまった菜月に多少の寂しさを覚えるブン太だった。大体、気を付けろと言われてもどうすればいいのだろうか。 そして、仕事に追われ幽霊の話を忘れ始めた3日後。例の出張の日の夜になり、件のホテルにチェックインした。 菜月の話を思い出して少し気後れしたが、出ると言うのは決まった一室らしい。この規模の大きいホテルで自分が泊まる部屋である確率は限りなく低い。そう考えると割と落ち着いていられた。 「あー、疲れたぜぃ。明日も取引先と商談だからな……シャワー浴びてさっさと寝よ」 翌日の仕事に備え身体を休めるべく、シャワーを浴びたらすぐにベッドへと潜り込んだ。疲れが溜まっていたのか、ブン太は直ぐに眠りに就いた。 しかし、静まり返った真夜中の3時頃、部屋に異変が起こり始める。 トントン…… 「んん……? まだ3時じゃん……気のせいか……」 僅かにドアをノックする音が聞こえ、丁度眠りが浅い時期に入っていたブン太は目を覚ましてしまった。しかし、寝惚けているせいだと判断して再び眠りに落ちようとした。 トントントン…… 「誰だよこんな時間に!」 寝入ろうとするとまたドアをノックする音が聞こえてきた。今度こそ聞き間違いではないと分かったため、仕方なくベッドから出てドアを開けに行こうとした。その瞬間、また別の異変が起こる。 ……れ……けて…… 不機嫌そうに立ち上がろうとした途端、か細い声が聞こえてきた。小さすぎて何と言っているかは分からない。 「だ、誰だ……っ!?」 ……開けて、くれ…… 今度ははっきり聴こえた。男の声で開けてくれと言っている。しかし、この声は明らかに普通とは違う。 か細い声なのにはっきり聞こえてくる。まるで脳内に直接響いているように。 「まさか、この部屋が菜月の言ってた……? 勘弁しろよぉ……」 ドンドンドン! 徐々にドアを叩く強さが激しくなっている。ブン太はベッドから這い出そうとしていた身体を慌てて戻し、布団を被って震えていた。 ……開けてくれ……あけて、くれ…… ドンドンドンドンッ! …… ア ケ テ ク レ ……… (ひぃっ……! 開けられる訳ねぇだろ……!? 早く、早くどこか行ってくれよ……っ! ああ帰れ帰れ帰れっ!) 苦痛に満ちた声を聞き、体が硬直してしまう。それでも声にならぬ声で叫びながら布団の中で耳を塞ぎ続けた。 ……ア゙ ゲ デ グ レ゙ェ゙ェェ……!! 断末魔のような叫び声はいくら耳を塞いでも遮ることはできなかった。こんなに大きな声やドアを叩く音が聞こえるのに、誰も部屋に助けに来てくれる者は居ない。 (帰りてぇよ菜月……! 助けてくれ……!) 最早発狂寸前のブン太は暫く恐怖で眠れなかったが、疲れの為かそれとも気絶したのか、いつの間に眠りに落ちた。 ブン太が次に目覚めた時はカーテンの隙間から朝の光が差し込み、何事もなかったかのようにあの音と声も消えていた。昨夜のことをホテルの従業員に聞いてみたが、皆言葉を濁しており、結局は何も分からず仕舞いだった。 「夢、だったのか? でもやけにリアルだったな……」 嫌なことは早く忘れた方がいい。きっとあれは悪い夢だったんだ。そう自分に言い聞かせ、まだ続く出張先での仕事に集中することにした。 その後出張も無事終え家に帰ったブン太は、早速菜月にホテルであったことを話した。妻の菜月もそれを熱心に聞く。 「実はブンちゃんが居ない間にあのホテルの事を調べてみたんだけど……」 ブン太が話し終えた所で、一息おいて菜月が神妙な面持ちで話し出した。彼女が言うには、今は建て直して面影はないが、例のホテルは2年前に酷い火災があったらしい。被害自体は少なかったのだが死者が1名出たそうだ。 「逃げ遅れたそうよ。やっぱりブンちゃんが聞いた音は幽霊だったんだ……。連れて来てないよね?」 「うぇ……怖ぇこと言うなよ……。にしても本当にあの時ドアを開けなくて良かったなぁ」 「え、どうして?」 「どうしてってお前……」 「だってその人はドアの故障が原因で亡くなったのよ? みんな避難してしまって誰もいないホテルで、一人部屋から出られずに助けを求めながら……」 こんな死に方はしたくない。 |