ホラー・狂愛夢

□バスルーム
1ページ/1ページ


 思い出したくもない記憶があるんだ。それはきっと一生忘れる事はできないと思う。

 だからと言っていつまでも引き摺っている訳にはいかない。それは自分でも分かっているつもりだよ。

 そうだな、人に話すことで少しは楽になると聞くし、この機会に話してみようと思う。聞いてくれるのか? ありがとう。




 あれはもう5年前になるかな。俺がまだ大学生の時のことだった。

 あの日は当時付き合っていた菜月と初めて二人きりの旅行に出掛けていた。昼は一緒に観光を楽しみ、夜はその旅行先のとあるホテルに泊まった。
 あの忌まわしい記憶は、そのホテルのバスルームで起こった……。

「精市、私ちょっと荷物の整理がしたいからお風呂先に入って良いよ」
「分かったよ、じゃあお先に」

 菜月にシャワーを勧められ、バスルームへと向かった俺。最初は特に何も問題などなかった。しかし、異変が起こり始めたのは髪を洗っていた時だった。


 不意に後方から冷たい風がスーッと入ってきた。音は聞こえなかったが、菜月が入り口のドアを開けたのだろうと俺は考えた。何か用事か、もしくは一緒に入るつもりなのかと少しばかり期待しながら俺は振り向いた。

「どうしたの、菜月?」

 返事はなかった。見るとドアが20cm程開いているが人影は見えない。冷気だけが浴室に向かって静かに入り込んでくる。

「菜月?」

 もう一度呼んでみてもやはり彼女の返事はなかった。少なくともドアの傍にはいないようだ。

 何とも腑に落ちないが、どうやら俺が入る時にドアを閉め損ねたらしい。そう自分を納得させた俺は、そのままドアを閉めようと一歩踏み出した。


 その瞬間、明らかに菜月ではない人の姿がドアの隙間からすーっと現れた。
 瞬時に俺はそれが人間ではないことを察知した。それは俯いているようで、髪がバサッと前に垂れており表情は全く分からない。

 どうして普通の人間ではないと分かったかって? ああ、確かにそうだね。俺だって別に霊感がある訳でもないから、幽霊なんて信じていなかった。だけど、どう見てもおかしいんだよ、頭の位置が。普通俯いていたら顎が鎖骨に当たる程度しか首は曲がらないだろう? でも、それは頭が肩の下、胸の辺りまで垂れ下がった状態だったんだ。上手く言えないが、まるで胴体に頭が皮一枚でぶら下がっている、という感じだった。

 今でこそこうして冷静に話していられるけれど、その時は頭の中が真っ白になって声すら出なかった。そして、やっとの思いで動かした身体は、気が動転していた為か、手元にあったシャワーヘッドを手に取って、それに向かって投げつけることしかできなかった。

 しかし、そんな事でソレが居なくなるはずもなく、更にはその行為がいけなかったのか、突然それはガタガタと肩で入り口をこじ開けてバスルームに入って来ようとしたんだ。出入り口の1つしかないバスルームの中では逃げ場がない。情けない話だが、俺はこの時心底恐怖を感じていた。


「……ぅ……ぁ、あぁぁーっ!!」


 その瞬間堰を切ったように俺の声が出た。あり得ない程の悲鳴として。後にも先にも俺の人生であんなに叫んだのはこの時一度きりだと思う。

「どうしたの精市!? 大丈夫っ!?」

 普段全く取り乱さない俺が突拍子もない悲鳴を上げたせいで、菜月が心配して駆け付けてきた。そして、バスルームに入って来る。

 あの頭を垂れた霊と思われるモノをすり抜けて……。

 その光景を見て、俺はついに失神してしまった。



 その後の事は気絶していた為、覚えていない。だが、あれ以来、目が覚めた時から今現在まで、ああいう類のモノは一度も見ていない。俺自身への異変なども特になかった。

 ただ、一つだけ後悔してもしきれないことがある。全く関係ないのか、それともやはり関係があるのか……それは決して判断できないけれど、あの時霊をすり抜けてしまった菜月は旅行の後に突然精神疾患を患い、リストカットを繰り返すようになった。

 精神を病んでしまった原因は一番傍にいたはずの俺ですら分からない。菜月の大学生活は何も問題がなかったし、友人関係や家族関係で悩んでいた素振りも見せていなかった。事実、ご家族や友人にどうして自殺を図ったのか分からないと言われ、更には俺との間で何かあったのではないかとあらぬ疑いまでかけられてしまった程だ。

 そしてつい先日、家族が少し目を離した隙に、再び自殺を図った菜月は、とうとう自殺に成功してしまい、俺を置いて亡くなってしまった。
 最近少しだけ元気を取り戻してきたのではないかと思っていた矢先の出来事だっただけに、後悔してもしきれない。

 葬儀の日に菜月の少しやつれてしまった死顔を見て、俺は彼女の遺体の前で涙が枯れるまで泣き続けた。
俺の心は深い悲しみと罪悪感、そして恐怖心で一杯になった。

 あの時俺が叫ばなければ、菜月もあの霊に触れることもなかっただろうし、そうすれば今も何事もなく生きていられたのではないだろうか……。
 しかし、それと同時に思ってしまうんだ。もしあの時菜月が入って来てくれなかったら、俺は今頃どうなっていたのか、と。

 いずれにしろ、今更そんなことを考えたって全ては後の祭りだ。



 ここまで聞いてくれてありがとう。少し楽になった気がするよ。改めて俺が菜月をどれくらい愛していたかを、そして今も愛していることを確認することができたしね。俺の決心も揺るぎない物になったよ。

 さっきから心地良い風が吹いているな。まるで俺を誘っているかのようだ。

 そうか、菜月が呼んでいるのかな。急かさなくても大丈夫だよ。

 ……なぁ君、すまないけど手を放してくれないか? もしかして君も一緒に来てくれるのか?
 そうだよな、君は来ちゃだめだよ。
 俺一人で行く。


 俺の身体が気持ち良いくらいに風を切って地面へと近付いていく。

「菜月……今から俺もそちらに行くよ……」



相変わらず後味が悪くてすみません。


[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ