宝物庫

□私の蝶々 (光濃)
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「…。」


そろりそろりと慎重に床板を踏み、なるべく気配を消して近付いた。
音もなく殺気も殺して、それこそ獲物を前にしたマムシのように。
縁側に何をする様子でもなく座っている男は、こちらの様子に気付かない。
戦場(いくさば)での嗅覚は人一倍優れているくせに、普段は人の気配に驚くほど鈍いらしい。

気配を殺す事に理由などなかった。
強いて言えば、そうさせてあのはあの男の持つ特異なオーラだ。
空夜を見つめる男の横顔は、死者のそれのようなのに。
戦慄が背を駆け抜ける。
男の周囲に彼愛用の双鎌がない事を確認して、胸を撫で下ろした。
申し訳程度に羽織っている着物には、男の痩躯しか包まれていないだろうから。

頬を撫でる生暖かい風が、震える足を叱咤する。
無造作に流された銀髪がきらと月光を弾いて鈍く光る。
その輝きは鋭く研いだ刃物のそれに似ていた。


「…光秀。」


ごくりと唾を飲み込み、震える声を捻り出す。
声色は少し堅い。

突如の耳慣れた音に、男は小さく髪を揺らした。
そして勿体を付けるように、緩慢な動作で首を傾げる。
淡い鈍色の瞳に、怯えた様子の蝶が映る。


「…おや、これはこれは帰蝶。私とした事がちっとも気が付きませんで…失礼を致しました。」
「いえ…いいのよ、光秀。」
「…して此のような夜更けにわざわざ屋敷まで…どうされたのです?」


私の首を刈れとでも魔王に命じられましたか?
にぃと口の端が吊り上がり、無感情の球体が意味あり気に(しかし意味などなく)動く。
こちらを向いた眼球から眼を逸らし、俯いた。
何も恐ろしい事などないのに。
目の前にいる男は、小さい頃から共に遊んでいた仲で。
血の繋がりすらある。
後ろめたい事など何もないのだから。


「信長様と呼びなさい。…上総介様は関係ないわ。」
「クス…関係がない訳ないでしょう?貴女のする事は全て“上総介様の為”なのだから。」
「否定はしないわ…でも上様はお前の首を斬るなんて事、これっぽっちも考えないわ。」
「さぁ…どうでしょうね。」
「お前の命なんて、あの方には痛くも痒くもないの。私の命も…ね。」


苦く呟く。
この男はいつだって嫌な事を言わせる。
そうよ、上総介様が考える事など私ごときに解る筈もない。
愉快そうに細められた無表情の瞳を睨み付けた。


「クック……さては帰蝶。私を止まり木にする為に此所へ?あぁ、止まり木ではなくて止まり花といった方が相応しいか…。」
「…どういう事?」
「蝶は花から花へ…甘い蜜を集めると同時に、その翅を休める。違いますか?」


つまり、私はお前の元へ翅を休めに来たとでも?



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