刀*語

□御方狂ひ
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「御方狂いという言葉をご存知でしょうか」


不意に問い掛けられ右衛門左衛門は咄嗟に振り返る。
何事かと隠れた視線を長髪の男――真庭喰鮫に向けるが、相変わらずこの忍は微笑を浮かべるだけで。
勿体振る様に伸ばされた沈黙の後、歌う様に紡がれる言葉に洋装仮面は見えない眉を顰めた。


「遊女通いの放蕩者や、他人の奥方に夢中になっている者の事を指す言葉らしいです」
「…………」
「何故私がこの様な事を言ったか、お分かりになりますか?」


ねぇ、右衛門左衛門さん。
そう言って喰鮫は更に口角を上げる。
人の悪い邪悪な笑みと共に饒舌に語り出す。
それが不気味でありながらも、右衛門左衛門はまだ口を開かない。
開こうとしない。
ただただ恍惚とする喰鮫の言葉を聞いている。


「まるで今の私の為にある言葉です。そうは思いませんか?」

「遊女通いはともかく、他人の、しかも実質的に上司である者の奥方に夢中になっているのですから」

「貴方もそうは思いませんか? ねぇ…鳳凰様の奥方でありながら私との逢瀬に付き合っている右衛門左衛門さん、」


不忍の耳元で蠱惑に囁く喰鮫。
まるで甘い毒を孕んだかの様な声色、声音に右衛門左衛門は息を呑んだ。
脳髄を溶かす様なそれに加え、獰猛な浅葱の瞳は静かに見つめ返してくる。
反応を楽しむかの様に、執拗に、ゆるりと頬を撫でながら。


「ああ、いいですね、いいですね……背徳の空気はいいですね」


白い頬から首筋へ、そしてもう片方の手で細い背中を引き寄せる。
唇が触れるか触れないかの距離になってもまだ抵抗しようとしない右衛門左衛門。
不埒に腰を掠める喰鮫の手付きにさえも、不忍はじっと男を見つめるだけだった。
まるで何とも思っていないとでも言うかの様に。


「おや…抵抗されないんですか? 私としてはそうされた方がより燃え上がれるのですが……残念ですね、残念ですね、残念ですね…」
「……抵抗した方がいいのか?」


喰鮫の腕に抱かれながら組み敷かれた右衛門左衛門。
陶然とする男に対しやっと口を開いた。
しかしそれは予想外にも嫌悪感を含んだものではなく。


「要らず。…その様なもの、単なる余興に過ぎないのだろう」
「ええ、そうでしょうとも…」
「それともお前は、本心からのそれを望んでいる、と?」


見下ろす喰鮫を見つめ不忍は小さく笑みを浮かべる。
その挑発的な微笑と共に、右衛門左衛門は艶のある声音でそっと囁く。


「私が嫌悪から抵抗するのなら、とうの昔に抵抗している筈だ」


惑わす様に、酔わせる様に。
婀娜に紡がれた言葉に、喰鮫は僅かにその目を見張った。
そんな彼には意も介さず、洋装仮面はゆっくりと両腕を男の首に廻す。
更に互いの身体が密着する体勢に、喰鮫は吐息を吐く様にうっとりと呟く。


「嗚呼……やはり貴方は、いけない御方だ」


それを聞いて、右衛門左衛門は更に笑みを深める。
艶然とした微笑に堪らずに、喰鮫は喰らい付くにして薄い唇を自らので塞いだ。
互いの熱の篭った様な吐息は、夜闇の閑散とした空気に静かに溶けていった。






























御方狂ひ
(不倫、だなんて…何て素敵な言葉だと思いません?)
(他人のものを奪う事程愉しくて快感なものは、おおよそ此の世には存在しないでしょう)







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