刀*語

□戦慄のmisunderstanding
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浮気ネタ。
女々しい左右にご注意あれ。










私は、何もしていない。
していない筈だった。

それは例の如く、暇を縫って真庭の里にやって来た時だった。
もうすっかり見慣れてしまった家屋の中に入ろうと玄関の鴨居を潜ろうとしただけだ。
それだけだった。
その時だったのだ。


「―――…本当に我と付き合ってくれるのか? 狂犬、」


私は聞いてしまったのだ。
その会話を。


「勿論さ。私も昔から好きだったからね。鳳凰ちゃんさえ良ければ」
「そうか。なら良いのだ」


耳を疑った。
聞き間違いだと信じたかった。
しかし確かに、家屋の廊下の奥から聞こえたその声は聞き間違える筈もなく。

無意識に気配を消して、一番手前の部屋を覗いて更に愕然とした。
朱と藍の人影に背筋が凍り付いた。
狂犬はこちらに背を向けていて表情は分からなかった。
だが、彼女と対峙する男の表情は嫌という程垣間見えた。
穏和で柔らかい、微笑。
まるで懸想人に向けるかの様なそれに心底から驚愕した。


……私は―――…


不意に脳裡に浮かんだ結論。
それに言い知れぬ恐怖を感じて私は思わずその場から逃げ出した。
私は何も見ていない。
そんな事実は認めない、認めたくない。

それでも否定し切れない真実に、私はただその場から逃げるしか出来なかった。






























「―――…え、右衛門左衛門さま、」


およそ一刻後。
再び真庭の家屋を訪れると人鳥が玄関で出迎えてくれた。
こちらを確認したと同時に笑みを湛えながら近付いて来る様が嬉しくもあり愛らしい。

まるで何もなかったかの様に。
丁度今来たかの様に装いながらまた再び私は鴨居を潜った。
先程聞いた二つの声も気配も今は感じない。
それに大きな安堵感を抱きながら人鳥に包みを差し出した。


「土産だ。また皆で喫してくれ」
「い…いつもすみません」
「構わず。気にしなくていい」
「あ、ありがとうございます」


不安げに言葉を紡ぐ少年の頭を撫でてやる。
両手で大事そうに包みを持つ姿に思わず微笑んだ。
すると人鳥も欣然と、はにかむ様に笑みを浮かべる。


「きっと、鳳凰さまもお喜びになられると思います」

その言葉に刹那だが頭が真っ白になった。
さっき諌めた筈の嫌な蟠りが再び騒ぎ出す。

人鳥に悪気は全くない。
だからこそ平然と、微笑んで、そうだな、と返さなければ。
そう自身に言い聞かせるが、身体は良い様に動いてはくれなかった。
閉口して、ただただ静かに少年を見つめるだけ。

不意に人鳥の表情が陰る。
不安そうに見つめ返す童に酷く申し訳なく感ずる。
そんな表情をさせるつもりなどなかったというのに。
再度柔らかい髪質を撫でながらぎこちなく笑う。
今度こそ、大丈夫だ、と言ってやった。


鳳凰が、あの様な事をするという事は。
よくよく考えてみれば疑念を起こすまでもなかった事だ。
他の者に心変わりする事も、それが長年共に里を守ってきた仲間に対して抱く事も。
有り得そうな事であり、同時に当たり前に思える事だった。

この事の顛末を、浮気、と。
そう名付けるのさえ、おこがましいのかもしれない。

私達は元々怨敵同士だった。
怨敵だと思っていながら親友で、かと思えば裏切られて。
こうして夫婦となった後でも、前回の二の舞にならないとは限らなかったのだ。
もっと肝に命じておくべきだった。
そうでなければ必要以上に驚愕し絶望する事などなかっただろうに。
姫様ではないが、本当に安易な考えだった少し前までの自分を否定したい。

だが。
だからといって。

私にはこの件を鳳凰に切り出す勇気などある筈もなかった。
鳳凰は、或いはもう心持ちは彼女――狂犬へと向けられているのかもしれない。
それでも私は、あの時の鳳凰の言葉を信じたかった。
昔から変わらないこの感情をどうする事も出来ないのだ。
まだ本心であるこの心持ちを、捨てたくはない。
捨てられたくない。

少しの間でも。
残り僅かな時間であったとしても。
まだ悪あがきが許されるというのなら。
もう少しだけでいい。
あの男との、この関係を保たせて欲しい。


履物を脱いで家屋に上がる。
未だ困惑した様な表情をしている人鳥に微笑みながら手を伸ばしてやる。
少ししてから遠慮がちに握られる手。
その小さな手を握り返しながら、胸中は複雑に縺れ返っていた。






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