婆沙羅3 第二陣

□おじいちゃんの手
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「風魔、風魔や」


主が呼んでいる。
刹那の内にその眼前に現れれば、氏政殿は顔の皺を深くしながら自身を見つめる。
何がそんなに楽しいのか、手招きする方へ歩を進めれば、更に顔が綻んだ。


「晩酌の相手をしてくれんかの」


いつもの桜木の下に腰を下ろし、薄紅色の花弁の向こうの月を見ながら徳利を傾ける主。
既に手元が覚束ない気がして酒の入った瓶を引ったくって代わりに注いでやる。
ほろ酔いになっている氏政殿は嬉しそうに礼を言ってはまた一口酒を呑んだ。


「今宵はええ月が出とるのう。そうは思わんか、風魔」
「…………」
「何をぼけーっと突っ立っとるんぢゃ、早よ此処へ座らんか、此処へ」


自分が座る赤い腰掛けを叩いて催促。
そんな言葉に思わず硬直する。
普段からなかなか奔放な要求を突き付けてくるが、今はそちらの方が易しく思える。
自身は雇われの忍なのだから、その様な施しは無用であるのだが。
暫く立ち尽くしていると、年寄りの相手はそんなに嫌か? などと嘆き始める。
居た堪れなくなって仕方なしに隣に腰掛ければ、氏政殿はまた嬉しそうに笑った。

この主は、何処までも自身に優しい。
ヤサシイ、とは少し違う気がする。
この場合親しげである、と言った方が語弊は少ないのかもしれない。
ただの雇われの忍、それだけでしかない自身に、氏政殿は何かと手を焼こうとする。
気軽に話し掛けて、穏やかに微笑む。

人並みの感情なんて大半を昔に失った為定かではないが、側に居ると温かみを感じた。
胸の内に感じる不思議な感覚。
それが何なのかは分からないが、自身はそれが心地好いと思った。


「風魔よ、風魔」
「…………」
「風魔よ、後生ぢゃから聞いとくれ」
「…………」
「北条家が再び栄えるまで、頼むからわしの側に居っとくれ」
「…………」
「余所へ嫁ぐ事があったならの、必ずわしに、先ずわしに言うのぢゃぞ。何処ぞの馬の骨になんか風魔は任せられんぞい」
「…………」


自身は男なのだが。
娘を嫁にやる、という様なその言い方はどうなんだろうか。
第一女ではないのだし、この主にそんな大切そうに言われるなど自身には不釣り合いだろう。
他の依頼主へ下る前に一言相談しろ、という事なのだろうか。

恐らく松永殿の事を言っているのだろうと思う。
最近一時的として雇われた主だ。
出稼ぎ程度の軽い気持ちで直ぐにまた北条へ戻ろうと考えていた。
氏政殿には直接伝えてはいなかったのだが、どうやら気付き始めているようだ。


「おぬしは孫娘も同然ぢゃからのー、おぬしが居なくなるとなると年寄りには堪えるんぢゃよ…寂しゅうてなぁ」
「…………」


せめて普通に孫の様、と言えばいいものを。
何故その様に言い間違えるのかと真剣に思う。
だがその反面、言い知れぬ高揚感をもせり上がってきて少し戸惑った。


「…………」
「うう、ちぃっとばかし冷えてきたのう。そろそろ戻るとするぞい」


骨張った背中から地面へと落ちかけていた羽織を肩に掛け直してやる。
冷えてきた風に吹かれ身体を震わせた氏政殿に、見兼ねて肩を擦ってやった。
酔っていると言っても老輩の身だ、直ぐに冷えて酔いも醒める事だろう。
ふらつきながら腰を上げた主に手を貸しながら桜の木から離れた。


「ん? どうしたんぢゃ、風魔」


氏政殿が不思議そうに自身を見る。
無意識的に、取っていた皺だらけの手を力を加えて握っていた事に、自分自身でも気が付いていなかった。
優しげに輝く双眸を見つめてしまい、更に温かい手を握ってしまう。

不意に握り返してきた温もりが、背筋を逆撫でていく様に欣然が駆け抜けた。






























おじいちゃんの手
(どうしてか、今はまだ分からないけど)
(この皺くちゃの手を、静かな目を)
(絶対に失ってはいけないと、密かにそう思った)







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