婆沙羅3

□誘い香
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ふわふわと、漂う甘い香り。
まるで花に誘われる蝶の様に、足はそちらへと向いていた。















廊下を歩いていると、何か鼻を掠めるものを感じた。
何処からか漂う甘い香りに、思わず立ち止まり辺りを見渡す。
庭には香り良い花など咲いている訳がない。
ならば、と他に思い当たるものも無い為、振り向いた廊下を再び歩いた。

立ち止まっては見渡し、そしてまた歩く。
暫くそれを繰り返していると、勝手知ったる見慣れた廊下に出た。
いよいよ匂いも濃くなった処でもしやと思う。
風を引き寄せようと開け放たれた襖の奥を見遣ればその原因が分かった。


「―――…三成か、」


どうした、と振り向いて問うてくる刑部。
部屋の奥で日陰になっている机の前、どうやら執務をしていたらしい。
再び持っていた筆に墨を付け視線を戻しつつも刑部は私に問う。


「我に何か用か、三成」
「…………」
「…三成?」


刑部の元へ近寄るが、一向に返事どころか声すら出さない私に刑部が不審がる。
もう一度振り返ろうとした刑部に、させまいと素早く後ろから抱き竦めた。

膝立ちで私よりも細い体躯を腕に収め、頭巾の垂れる肩口に顎を乗せる。
いつもの様に呆れ気味に嘆息を吐く刑部。
やっと机に置かれた筆を目で追うと、ついでに甘い匂いの正体も分かった。


「……やれ三成よ、一体どうしたというのだ」
「…甘い香りがするな」
「…ああ、沈香を焚いておる故にだ」


机に置いてある香炉から漂う沈香の香りが、どうやら廊下にまで流れていったようだ。
近くに居ればまた芳しい蜂蜜の様な匂いが一層濃くなる。
暫く刑部の背中越しにその香炉を見つめた。


「…して三成よ、ぬしは何用で此処へ来た」
「何も無い。ただ香の香りの元を辿って来ただけだ」
「さようか」
「何と言う沈木なのだ」
「これは羅国よ、らこく」
「何だそれは」
「異国の香でな、六国五味の一つよ。以前長曽我部に戦利品を貰うてな」


折角なので焚いている、と話す刑部に思わず抱擁をきつくした。
体を急に強く抱かれた事で途端に肺腑をぐ、と詰まらせる。
息が刹那だけ止まったようにも思えたが拘束を解くつもりも更々ない。

その包帯と口布の下の口から他の人間の名が出るのが気に喰わない、許せない。
私以外の名を呼ぶなど私を裏切る気か。

更に重心を刑部の背へと移せばぐらりと不安定に刑部の身体が傾いた。
咄嗟に細い腕で支えてはいるが何分その腕だ。
長くは保たないだろう。


「……三成よ、」
「…………」
「我からその身を退かしてはくれぬか」
「断る」
「ならばせめて腕を解きやれ。苦しい、クルシイ」


少しその声音が掠れている様から漸う体勢を戻し抱擁を少し緩める。
ホッと息を付く刑部に、少しだけ罪悪を感じた。
見た目よりも脆い痩躯に負担を掛けさせてしまったようだ。


「全く、ぬしには敵わぬ」
「そんな沈木香などさっさと捨ててしまえ」
「やれ、ぬしはこの香が好かぬか?」
「…………」


そうではない、が。
そう暗に告げれば、刑部は何を思ったのかはたまた気が付いたのか、喉の奥で含んだ笑いを上げた。
愉快そうに聞こえるそれに疑問を感じ肩越しから刑部の顔を覗き込んだ。
楽しげに目を細めるその様は、とても愛おしく思えた。


「香に誘われ来やるとは、ぬしはまるで蝶の様よ」


愉快愉快と言いつつ香炉の中の銀葉を取り出し香を消し去る刑部。
名残惜しげな様子もなく潔く手を動かす様に少し気分が良くなった。
私の前では、もう刑部はこの香を焚いたりはしないのだろう。

膝立ちだった姿勢から腰を下ろし、今度こそ背中からすっかり刑部を抱き抱える。
未だ筆を持つ気配もない刑部に、肩を顔を埋めて更に密着する。
いつの間にか、その包帯には沈香の甘い香りが移っていた。






























誘い香
(もし私が蝶であるのなら)
(私をいざない、香を発する花はお前なのだろう)







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