逃亡者

□第一章 
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僕の手に握られたナイフ。それは、目の前の人間に致命傷の傷を、目の前の血の絨毯の出口を開けたナイフにちがいないだろう。
これは、誰だって状況から理解する。僕だって理解した。
ああ、理解したとも。
しかし、その凶器であるところのナイフを、なぜ僕がしっかりと右手に握り込んでいるのかと問われれば、正直に言ってわからないというしかない。
いや、からっきしわからないというわけではない。
もちろん、それを問う相手がいるならば、その相手の考えているだろう考えは想像に難くない。
その相手は心の内で言っていることだろう。
「お前が殺ったんだろ?」と。
確かに状況から言って、その考えは実に事実に近いであろうことはわかる。裁判が行われれば、状況証拠の十分さで、ゆうに判決が下されることであろう。
もちろん僕の有罪という判決がだ。
満場一致間違いなし。
反論の余地なし。
それはわかる。
それはわかるのだけれどもだ。

それは嫌だ。

僕だってこの歳で前科者しかも殺人犯になるなんて、お断りだ。
僕は反射的に、この場所を切り抜けることを判断した。逃げてしまおうと。
僕は、知っていた。たとえば、この状況で「僕は違います」と言って誰かに助けを請うとしよう。その場合、それが誰であろうとも、警察には「殺人犯が目の前に」との通報がなされるだろう。警察では、どれだけ言い張っても、強面の刑事によって、無理やりに自供させられるだろう。

僕は・・・

その時、パトカーのサイレンが聞こえた。
「誰かが通報した・・・?!」
だが、まだサイレンの音は遠く、こちらに向かっているのかさえわからない。
しかし、こちらに向かっているという可能性も、ないわけではない。
僕は、反射的に立ち上がる。制服に血がべっとりとついていることに気づき、なにか隠せるものはないかと暗い路地裏を見渡す。
比較的きれいな(とはいってもほこりまみれで少々やぶけているのだが)長めのコートを見つけた。僕はそれを拾い上げ、数回はたいてほこりを落とす。
そして、そのコートをはおった。前のボタンはすべて取れてしまっていたので、両手で押さえるようにする。
コートは、膝までを覆った。
これで大丈夫だろう。
ナイフは、指紋をとられてしまうとまずいので、折り曲げて刃を柄の部分に収納し、制服の内ポケットに入れた。
僕は体中を見回し、不備がないことを確認したところで、路地裏の出口付近の壁に背中を張り付ける。
息をのみ、じりじりと人々があるく明るい道へと近づく。
深呼吸をして、呼吸を整え、すばやく人衆の波へと入り込む。
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