Novel

□景陽祭
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瓶の中の灯





ちょうど昼餉が終わったあたりから回廊を行き交う足音の数が増したようだった。
仁重殿の中堂、玻璃づくりの窓際に座り、景麒はことりと静かに筆を置いた。降り注ぐ陽光が、麒麟の長い鬣を見事な金の大滝に変えている。
再び筆を取り上げようとせず、陶器のような指を組みながら、景麒はただ無表情に待った。
外は穏やかに晴れていて、風もない―――これは確かに、脱走日和であろう。
やがて案内を請うよく知った声がして、待つほどもなく声の主が漆塗りの衝立の蔭から姿を現した。
濃紫の官服を着た涼しげな男は、丁寧に拱手して跪礼した。いわずもがな慶の冢宰である。顔を上げた臣下の整い過ぎた綺麗な笑みを見て、どうした、と形ばかり尋ねようとしたのをやめた。知れた問答はするだけ無駄だ。
「安心せよ。主上は宮の外には出ておられぬ。王気はいまだ宮中にとどまっておられる」
「さすが台輔、察しが良くておいでで助かります」
浩瀚は唇の両端をさらにくっきりと左右対称に吊り上げてみせた。景麒はそっとため息をついた。ほんの少しだけ、主が気の毒な気がしたからだった―――この男、ものすごく怒っている。
「…されど、女官に禁軍まで動員して宮中をくまなくお探し申し上げたものの、我ら凡人にはお姿を見いだすことができぬていたらくにて」
お恥ずかしい限りでございます、と男は深々と頭を下げた。
「かくなる上は台輔のお力をお借りしたく」
そうして、手にした書類をひらひらと上機嫌に振ってみせた―――どうしても今日中にこれに御璽を押していただきたいのですよ。
「しばし、ここで待つように」
言い置いて、陽の光にぬくもった回廊を奥へ奥へと進んでいった。ところどころに呪の糸がはってあって、踏みまたぐたびに床面が古び、くすんでゆく。
彼の足取りに迷いはなく、良く見ればひどく優しい色をしている紫の目はまっすぐに前に向いて微動だにしない。己の心の臓に糸が張ってあるのだと、なんとなく景麒の中ではそう理解されていた。主は熱源であり、明るい橙色をしたその光は瞼を閉じていてなお、まざまざと香気を放つ。滾滾と炎を吹き上げる熱の珠に糸でしっかりと結ばれていて、その糸をたぐりさえすれば容易に御元へと辿りつける、ただそれだけのことなのだった。
がらくた置き場と化している広大な御庫でその瓶をつまみあげたとき―――数寸ほどの透明な玻璃瓶の中で、主の姿はひどく縮んでしまっていたけれど、炎の熱自体に何ら異常はなく、いつもどおりに熱く愛らしい元気な主がそこにいた。
「ぴやぴやぴや」
瓶越しだと何を言ってるのかさっぱりわからない。
目の高さにかざしてみれば、暴れるのをひとまず休止して、玻璃にべったり鼻とほっぺたをくっつけ、すがるようにこちらを見上げて来た。ここは一癖も二癖もある古い冬器のたまり場だ。回廊と同じたぐいのなんらかの呪が瓶にかけられていて、遊んでいた主は中に吸い込まれてしまったらしい。
「お迎えに上がりました」
「ぴや」
「浩瀚が怒っておりましたよ」
「…ぴい」
蓋を抜こうとしたがそこは呪、微動だにしなかったので、とりあえず冬官に開栓を頼む前に、待ちかまえているだろう浩瀚のもとへ連れていこうと胸の袷にしまいこんだ。
瓶はひどく温かかった。
いつだって主の熱の気配を遠くはるかに感じるばかり、こうして胸元で直に独り占めできる瞬間などめったにない。コトコトと鳴る己の心の臓の鼓動に合わせて、瓶は熱く丸まっていく気配である。
大切に胸に手をあてて来た道を戻れば、日光に満ちた明るすぎる仁重殿の堂室の中で、浩瀚は極上の笑顔で迎えてくれた。
瓶を受け取って面白そうに覗き込んだ浩瀚は(主はぴやぴやと激しく暴れた)、何か言おうとして景麒を見上げ、そうして、ちょっと気押されたように口をつぐんだ。
ややあって、さようでございますね…と男は顎に手を当てた。
「実は…この書類は至急ではあるのですが、冬官達は皆、繁忙期であることを今さら思い出しました。申し訳ございません」
「は?」
「ですので、瓶の蓋をあけるための冬官を申しつけてはみますものの―――彼らがこちらに参内するのは、おそらく夕刻頃になろうかと存じます」
―――それまで、主上をお願いいたします。
再び瓶を手に押しつけられ、見事な一礼を残して冢宰が立ち去ってから、景麒はようよう、両の掌に包んだ瓶を改めて眺めた。紅の炎がひとむら、そこに燃えていた。
「ぴやぴや」
何か主が言っている。おかまいなく胸元にしまいこんでしまいながら、さっき持ち帰った瓶を手渡した時、自分はどんな顔をしていたのだろうと思った。おそらく情けない顔をしていたのだろう―――彼に、こんな気遣いをさせてしまうほどに。
「しばらくどこへも行かず、私の側においでください」
胸元が温かい。景麒は卓に座って、置きっぱなしだった筆を取り上げた。柔らかな金色の麒麟の口の端に、花弁のような笑みが灯っていた。










20121008 葵さま
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