Novel


□花筺
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陽光の落ちる庭先には春のあたたかさが宿っていた。風がおこす木々のざわめきは、冬のそれとは違う色を纏っている。
寒さに身を縮めていた生き物たちは、待ちわびた春陽の訪れを喜んだ。
身体を震わせるように新しい命を地上へと押し開き、力強く芽吹き出す。

陽射しに誘われて綻び始めた花を見やりながら、青年は笑みを深くした。
王宮で働く彼は仙籍に入っていない。
幼い頃にここへ引き取られてから今まで、青年は季節の移り変わりとともに彼自身も自然の摂理に従って成長してきた。
周囲の人々は皆、年を重ねずして生きる。彼の引き取り手であり実質上の主である少女もまた同様だった。
昔はよく、綺麗な花を見つけては彼女のもとへ届けていた。今でも時折。
抱えた花を見れば必ず、ありがとう、と屈託ない感謝をくれる。出会った頃と少しも変わらない少女のままの笑顔で。
そして決まって言ってくれるのだ。一緒に活けよう──と。

青年は彼女のもとへ向かっていた。
その手に、花は携えていない。








「陽子」
室内に若々しく澄んだ声が響いた。
声主は、女官に取り継いでもらい内殿の執務室へと陽子を訪ねた蘭桂である。
書卓に向かっていた陽子は、蘭桂の呼びかけに顔を上げると明るく笑った。
少女の傍らには宰輔である景麒が控えていた。書類に御璽を貰っているらしい。
蘭桂は笑んで軽く会釈をとる仕草をした。景麒は目を伏せることでそれに答えた。

「蘭桂、どうした?」
青年がこうして形式的に自分のもとへやって来るのはめずらしかったので、陽子は少なからず不思議に思って訊いた。
彼は笑みの浮かんだ口を開く。
「お仕事中、ごめんなさい。ちょっと話したいことがあって」
言うと陽子は、構わないよと先を促す。
気を遣ってくれたのか、景麒が退出しようとしたので蘭桂は慌てて呼び止めた。
「あ、待ってください、あの……もし良かったら台輔もいてくれませんか?二人に、聞いてほしいから」
景麒は瞠目したし陽子は小首を傾げた。
それを見やり、蘭桂は姿勢を正す。
「主上と台輔にはこの度、折り入ってお話ししたいことがあります」
生真面目な態度でそう切り出した青年に、陽子は面食らったようになる。
「……どうしたんだ、急に。そんな、改まって話をするなんて」
なかば動揺しつつ彼女は返す。
いまいち状況をうまく呑み込めないでいる様子の二人を見ながら、蘭桂は目元を和ませて言った。

──僕はここを出ようと思います。








陽子は頬杖をつきながら、ぼんやりと緩慢な動作で墨を摺っている。
だいぶ長いこと、そうやって右手を動かし続けている。おかげで硯の中の墨汁は十分すぎるほどの濃さになっていた。
彼女の人差し指と中指、親指の表面には墨の色が薄く滲んでいるだろう。
鈍く黒光りする液体は恐らく使用されることはないだろうし、傍に置かれた小筆が紙面の上を滑ることもないだろう。
なぜなら使い手である少女の頭の中は今、筆の穂先を墨に浸したりその筆で文字を書いたり、そんなことをするよりももっと重大なことで一杯だからである。
考え事は、もはや腕の疲れさえも麻痺させてしまっているようだった。

完全に上の空で墨を摺り続けている主を、景麒はしばらく黙って眺めていた。
先刻までここにいた青年と彼女が交わした会話を思い出す。青年──蘭桂の告げた言葉は存外、陽子に衝撃をもたらした。
主上、と景麒は声をかけるが返事は皆無だった。軽く溜息をつき、もう一度呼ぶ。
「主上──」
やや強めな口調で呼ばれ陽子ははたと我に返った。振り向いて見上げれば、そこには相変わらずの無表情があった。
「ああ……。ごめん、何だっけ」
どこか決まり悪そうに陽子は言う。
景麒はただ、いえ、と口の中で答えた。

「大丈夫ですか」
景麒に問われて、陽子はわずかに目を泳がせるとすぐに俯いてしまった。
握っていた墨を放す。指先を見つめながら彼女は心許なげにぽつりと零した。
「分からない……」
主が思いのほか気落ちしていると知るためにはその返答だけで事足りた。
だから景麒は言った。今日はもう何もしなくていいですから──と。
陽子が戸惑うのが分かった。それには気づかぬふりで彼は続ける。
「政務よりも気掛かりなことがおありのようですので。とくに滞っている案件もございません。今日はこれで結構です」
あくまでも事務的な用事を伝えただけだと感じるような口調だった。
必要な書類のすべてを持ち抱え、景麒は何事もなく堂室を立ち去る。その場には陽子だけが取り残された。



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