Novel


□春秋歌
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覚書





悠久に近い命を与えられ、敷き延べられた毎日を生きていると、古い記憶はやがて霧散していく。
必要な情報と、そうではない情報。必要な思い出と、そうではない思い出。
頭は意識せずとも勝手に仕分けをし、そうやって整理され残されたものさえ、結局は振り返ることを忘れる。
選別を繰り返し、少しずつ少しずつ、記憶は磨耗するように風化を辿る。



――こんなことがあった。
秋の初めの、日が暮れれば肌寒さを感じる時節。空には鱗雲が目立っていた。
どういう成り行きでか、詳しいことは何も覚えていない。
ただ陽子と連れ立って城下町を巡っていたことだけを、景麒は記憶している。
主従で下界へ降りるなど、そう珍しくもない茶飯事で済ませられるぐらいの時間を、過ごしてきた。
足休めに立ち寄った茶屋で、乳飲み子を抱く母親と出会った。店先の軒下で、女は陽子の隣に腰かけた。
母親の腕に抱かれた赤子は、陽子の緋色の髪がよっぽど気になるらしい。
まだ汚れの知らない潤いに満ちた瞳をぱっちり開いて、瞬きもせず見入っている。
遠慮のないその視線を、陽子もまた窺うようにして見つめ返した。
笑顔になってみせると、腕の中の赤子はぴくりと身を捩り、嬉しげにひとつ高い声を上げて短く笑った。

「生まれたばかりですか?何ヵ月?」
陽子が話しかけると、四ヶ月ほど前に実をもいだのだと女は答えた。
幸せそうに微笑む彼女は、隣に座る男女を改めて見やる。
少年じみた風体の娘と、地味ではあるが仕立ての良いと分かる衣服を纏う青年とを、女はどう思っただろう。
しかし彼女は取り立てて詮索することもなく、陽子に向かって首を傾げた。
「――抱いてみる?」
女の申し出に、陽子はまるで壊れものを扱うかのような仕草で、そのあまりにも小さな身体を押し戴いた。
赤子はやはり目を見開いたまま、腕を伸ばし、近くで揺れる緋色の髪を掴んだ。
そうして好きなだけ髪を握らせてから、陽子は腕に抱いた重みにじっと目を落とし、ぽつんと呟いた。
「あたたかい……」



黄昏には王宮に戻った。
しばらくして景麒は、突然、自室の扉が無遠慮に叩かれる喧しい音を聞いた。
こんな不躾な訪ね方をするのは、ひとりしかいない。溜息混じりに出迎えれば案の定、陽子が悪びれもなく立っている。
彼女は景麒の背後を、ちらと覗く。
「何かしてた?」
いいえ、と返す景麒の言葉をろくに待たず、陽子は彼の脇を擦り抜けた。
榻の上、読みかけとおぼしき本が見開きの状態で伏せてある。
本を読んでいたのかと訊かれたので、まあそんなところだと景麒は答えた。
ふぅん、と陽子は漏らす。
「読んでていいよ」
わたしにも何か貸して。そう言って勝手に書棚へ向かった彼女は、だがすぐに手ぶらで戻ってきた。
興味ないのばっかり、とぼやきながら、景麒に席を詰めろと手で示す。
沓を脱いだ陽子は、座っている男へ寄り掛かるように背中を預け、横向きになって榻のほとんどを占領した。
身体の半分だけに体重がのし掛かってくるのを、景麒は溜息で軽くあしらって、再び本に視線を投げる。
それきり彼女は一言もなかった。

洟を啜る微かな音がした。
寒いのだろうかと傍らの少女へ声をかけようと首を捻り、そして景麒は一瞬、息を呑んでから静かに顔を戻した。
――何も気づかなかったように。
たぶん陽子は、今夜ここへ泣きにきたのだろうと、景麒は思った。
乳飲み子を抱く母親。別れ際に抱擁を交わす若者。手を取り合って歩く老夫婦。
いっそ自分をなじってくれればいいのにと、景麒はそんなことを考える。
奪ったものを返してくれと、たとえそれが当て擦りの非難だとしても。
こうして黙って傍にいてやったり、慰めてやったり、或いは互いの肌を求めて寄り添ったりすることは簡単だ。
それでも肌を重ねるだけでは、埋め合わせることのできない欠落や和らげることのできない孤独が、必ずあった。
あの赤子は、きっと瞬く間に成長し、陽子も景麒も追い越していくのだろう。
いつしか、緋色の髪を握った小さな指は誰か別の愛しい対象へ伸ばされ、幼い掌の感触など陽子は忘れゆく。



顔を背け、あやうく引き攣りそうになる声を、陽子は必死で呑み込んでいたが、結局それも諦めた。
開き直ったように泣き始める。
身体の向きを変えて、凭れていた男の腕に、思いきり目許を押し付けた。
景麒は、膝上に置いたまま読んでいるふりをしていた本を、そっと閉じた。




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