Novel


□歓びのあとさき
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――麒麟であることを嫌だと思ったことはないの。

素朴な疑問でも口にするかのように、彼女は問いかけてきた。
なぜ主が突然そんなことを聞いてきたのかは分からない。たぶん、とくに理由などないのだろう。何となく聞いてみた。そんなふうだった。ただ、彼女にそう問われた時、少なからず既視感を覚えたのは確かだった。
考える間もなく、幼い麒麟の姿が思い出される。いつか、その小さな麒麟も自身に聞いたのだった。今の彼女と、同じような問いかけの言葉を口の端にのせて。

――台輔は……麒麟に生まれたことを後悔なさることはありませんか?

濡れた瞳で己を見上げながら問うた彼も、そして目の前にいる彼女も、共に胎果の生まれだった。



別に、何か理由があったわけではない。ふと気になったのだ。もしも彼が、麒麟などではなく普通の青年に生れついていたら、どうなっていたのだろうと。麒麟という生き物は束縛が多い。もっと自由に、只人として普通の人生を歩んでみたいと思うことはないのだろうか。
だから単純に聞いてみたのだ。自分が、麒麟でなければ良かったと、考えることはないのかと。
彼の答えは、ただ一言、明確だった。
――ありません。
その、あまりにもきっぱりとした物の言いように、何かしらの違和感を感じずにはいられなかった。





「ありません」
何とはなしに口をついて出た疑問の言葉に対し、景麒は躊躇なく答えた。まっすぐに陽子を見据えている紫色の瞳からは、何の感情も読み取れない。
「……本当に?少しも、ないのか?」
陽子は幾分、眉を顰めながら念を押すように聞き返した。虚を衝かれるほどに、はっきりと言い放つその迷いの無さが、俄かには信じ難かったのだ。けれど景麒は相変わらず、ありません、と短く繰り返すだけだった。
小さな沈黙が落ちる。
困惑ともつかない複雑な表情で己の僕を見上げていた陽子は、ふい、と目を逸らし、書卓の上の書面へと視線を移した。そうして、先程までしていたように、ひたすら御璽を押し始める。無言で紙面の内容を読み流し、印を押し付ける。そこに飲み下した感情を流し込むように。

しばらく紙を惓る音だけが室内に響いていた。やがて、陽子が、やはり食い下がるようにして再び口を開いた。
「麒麟には……親も兄弟も、いないのだろう?身内と呼べるものを何ひとつ持たないで、それで、寂しくはないの」
こちらの世界について、まだ右も左も分からなかった頃に隣国の宰輔から聞き知った、麒麟という存在。その在り方を聞いた時、陽子は「悲しい」と感じたのだ。
麒麟である当人は、それをどう感じているのだろうか。
それでも景麒はやはり、感情の見えない声で静かに答えるのだった。
「特別、そのように感じたことはありません。初めから持たないものですので」
初めから持たないという環境に置かれること自体を、悲しいとは思わないのか。陽子はそう問いたかったが、やめた。
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