Novel


□歓びのあとさき
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堂扉が、微かな音をたてて開いた。驚いた陽子は、涙で濡れた顔を跳ねるように上げ、音のした方を振り向く。視界に映ったのは、景麒だった。
泣いているらしい主の姿を認めた景麒は、わずかに目を見張る。それに気付いた陽子は、慌てて乱暴に手の甲で涙を拭うと気まずそうに顔を背けた。
「……何。なんか、忘れ物?」
ことさら素っ気ない口調になる。
いえ、と景麒は低く呟いた。
「こちらの書類を、お渡しするのを忘れていたので……」
そう言うと、陽子に近づいて文書の束を手渡す。ああ、と陽子は受け取り、それらをざっと眺めてから傍の書卓へ置いた。
「ありがとう。あとで、ちゃんと読んでおくから……」
それきり、会話は途切れた。

赤くなった目元を隠すように俯き、手先で前髪をいじっている陽子を、景麒は見下ろしていた。どうすべきか迷ったが、やはり聞かずにいられない。
「……なぜ、泣いているのですか」
その声は相変わらず抑揚を欠いていたが、どこか懸念の色を含んでいた。自分が泣かせてしまったのだろうか、と。
「別に、何も……」
口篭るようにそう答えられて、納得できるはずもない。少なくとも、こんな状態の主を放って出て行く気にはなれなかった。かと言って、何か気の利く慰めの言葉を持っている程、己の口は達者ではない。
だから景麒は、手を伸ばす。まだ少し涙の跡が残る頬を、そっと親指のはらで拭ってやった。存外に優しげな手つきで。

思いがけず頬を拭われた陽子は、目をしばたいて景麒を見上げる。ぶつかった紫の瞳は、ほんの少しだけ、困ったような表情を覗かせていた。
そうして彼は、陽子の頬に触れながら穏やかな声を落とす。主上は信じてくださらないでしょうが……、と。
「わたしは、あなたに泣いて欲しくなどありません。いつでも、あなたには微笑んでいて欲しいと願っている。それが、わたしの望みです」

涙の粒を睫毛にのせたまま目を見開く陽子は、じっと景麒を見つめた。
何度か迷うように口を開きかける。自分を見下ろしてくる瞳も、触れてくる手も、どこまでも優しくて愛おしかった。
「……それは、信じることにする」
やっと、それだけを言った。
すると景麒は何かに安心したように、ごくわずかな微笑を見せる。
それを受けて、陽子も自然に微笑んだ。





隔たりがあるからこそ、人はそれを乗り越えようとする。近づきたいと願う。
たとえばそれが苦痛を伴うものであっても、人はその先にある歓びを、求めずにはいられないのだから。










※※※

タイトルは、例によって例のごとく適当です。何となく直感でつけました。

20100523
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